島町 (常陸太田市)
島町(しまちょう[5])は、茨城県常陸太田市常陸太田地区の幸久地区にある町名。郵便番号は313-0047[3]。なお、地名の「島」は異体字で「嶋」と表記することがあった。 地理常陸太田市の南部に位置する。標高30m前後の台地[6]である独立丘陵の上にある。この台地の上や山田川沿いには集落や畑が、台地の周りに広がる低地には水田が分布する。台地上やその周囲の斜面には針葉樹林も分布する。 河川山区域区域の変遷隣接する地区歴史島町にある埋蔵文化財包蔵地については梵天山古墳群#文化財なども参照。 地名の由来#志万郷を参照。 縄文時代古墳時代島町のある丘陵全体には大部分[6]が茨城県の史跡に指定されている梵天山古墳群がある。その主墳の梵天山古墳(墳丘長151m)は石岡市の舟塚山古墳(墳丘長186m)に次いで茨城県内第2位の大きさ[6]の前方後円墳である。梵天山古墳は、その規模から久慈川流域を支配した首長の墳墓と見られ、初代久自国造の船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓と伝えられている[11]大古墳である。詳細は当該項目を参照。 志万郷志万郷はのちの島村・小島村(小島はもとは大島と表記していた[12])・粟原村・中野村・大方村・高柿村(以上の6村はそれぞれ現在の小島町・粟原町・中野町・大方町・高柿町にあたる)等の6村に当たる地域に[12]古代にあった久慈郡の郷[9]。平安期に見える[9]。地名の志万は旧字体では志萬と表記する。 地名が「しま」である由来は、北方を山田川が南東流し、南方を久慈川が東流して南東で合流することで島のような地形となっていることである[12]。 島村
島村はおおよそ現在の島町に当たる地域に近世にあった[9]村。江戸期から[9]1889年(明治22年)4月1日まであった。江戸時代には常陸国久慈郡に属していた。島村の西に隣接していた小島村(おおよそ現在の小島町に当たる)は往古島村から分村したものである[13]。はじめ佐竹氏領だったが、慶長14年(1609年)からは(常陸)水戸藩領[9]。 広袤『新編常陸国誌. 上』 548コマ目によって記載する。 村高
寺社『新編常陸国誌. 上』 548コマ目や『新編常陸国誌. 下』 67コマ目には、島村の寺院として以下の二つが記載されている。なお、神社の記載はない。 小名等。 島村の廃止とそれ以降町村制の施行のための明治の大合併で島村は1889年(明治22年)に近隣4村と合併(新設合併)し、「島」という地名はその合併によってできた久慈郡幸久村の大字となった。その大字島には幸久村の村役場が置かれた(ただし幸久村役場所在地名を上河合とする資料[18]もあり、現在幸久公民館があるのも上河合町である)。 その後幸久村は昭和の大合併において、近隣の5村とともに太田町に編入され、消滅。同日太田町は市政施行・改称して常陸太田市となり、旧島村の範囲はその常陸太田市の島町という町名となった。 沿革
町名の変遷
世帯数と人口など2018年(平成30年)6月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[19]。
島町の人口は以下のように推移している。 島町の人口の推移[20]
島町の世帯数は以下のように推移している。 島町の世帯数の推移[20]
戸数など現在の島町にあたる地域の戸数などに関する記録は以下の通りである。
施設公民館寺院神社交通路線バス
道路
文化財梵天山古墳群#文化財なども参照。 茨城県指定文化財小字
島町の小字
脚注注釈出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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