岡谷市役所岡谷市役所(おかやしやくしょ、英語: Okaya City Office)は、地方公共団体である長野県岡谷市の執行機関としての事務を行う施設(役所)である。 概要普通地方公共団体である岡谷市は、長野県の中央に位置しており[1]、諏訪湖の西岸に面している[1]。執行機関としての事務を行う役所として岡谷市役所が設置されており、市内に複数の庁舎が置かれている[2][3]。 庁舎
岡谷市役所庁舎(おかやしやくしょちょうしゃ、英語: Okaya City Hall)は、1987年(昭和62年)に竣工した。以前の岡谷市役所庁舎が老朽化したことから新たに建設された。 諸元岡谷市役所庁舎は長野県岡谷市幸町に立地している[4]。岡谷市役所庁舎は地上9階で構成されている[5]。 特徴岡谷市役所庁舎には岡谷市の首長部局だけでなく、監査委員や選挙管理委員会の事務局や[6]、議会の事務局なども入居している[7][8]。また、岡谷市観光協会も入居している[9][10]。さらに諏訪広域連合や長野県などにより設立された第三セクターである諏訪広域総合情報センタも入居している[8][11][12]。 岡谷市役所庁舎の内部には『歴史』と題するステンドグラスが設置されている[13]。その大きさは縦2.0メートル、横0.6メートルに及ぶ[14]。日本交通文化協会が企画し[14]、クレアーレ熱海ゆがわら工房が原画を手掛けた作品である[14]。1987年(昭和62年)1月に設置された[14]。 岡谷市役所庁舎の前には服部セイコーが手掛けた絡繰時計塔が設置されている[† 1]。 年表
フロア構成岡谷市役所庁舎のフロア構成は時代とともに変動しているが、ここでは一例として2023年(令和5年)4月1日時点の構成を記載した[5]。
旧庁舎
岡谷市役所旧庁舎(おかやしやくしょきゅうちょうしゃ、英語: Former Okaya City Hall)は、1936年(昭和11年)3月に竣工した[15]。平野村の市制施行を機に新たに建設された[16][17][† 2]。旧岡谷市役所庁舎(きゅうおかやしやくしょちょうしゃ)とも表記される[17]。かつては平野村役場庁舎(ひらのむらやくばちょうしゃ、英語: Hirano Village Hall)、岡谷市役所庁舎(おかやしやくしょちょうしゃ、英語: Okaya City Hall)と呼称された。 諸元岡谷市役所旧庁舎は長野県岡谷市幸町に立地している[17]。庁舎は地上2階で構成されており[15][17]、構造形式には鉄筋コンクリート造を採用している[15][17]。屋根は洋風の素焼平瓦葺であり[17]、外壁はスクラッチタイルで仕上げられている[17][18]。このタイルは丸千製作所で焼かれたものである[18]。延床面積は1545.85平方メートルであり[15][17]、建築面積は792.15平方メートルとなる[15][17]。 特徴永年に亘って岡谷市役所が入居しており[17]、岡谷市における市制施行の象徴的な存在として親しまれてきた[19][20]。 丸窓やスクラッチタイルを用いた外壁など、洗練されたモダンな外観が特徴である[20][21]。昭和初期の庁舎建築としては貴重であることから、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」[19]として2005年(平成17年)2月9日に文化庁により登録有形文化財とされた[19]。さらには「《上州から信州そして全国へ》近代製糸業発展の歩みを物語る富岡製糸場などの近代化産業遺産群」[22]を構成する近代化産業遺産として、2007年(平成19年)に経済産業省により認定された[22]。 この岡谷市役所旧庁舎は、個人が私財を投じて建設し[17][18]、それを市に寄附するという異例の経緯を辿っている[17][18]。建設にかかった費用は約12万円と当時報じられているが[17]、その全てを実業家の尾澤福太郞が個人で賄っている[18]。 岡谷市役所旧庁舎の横には『尾澤福太郎翁壽像』が建立されている[16]。尾澤の功績を称えるために岡谷市の前身である平野村が1936年(昭和11年)に建立したものであり[17]、彫刻家の武井直也によって制作された[17]。のちに太平洋戦争の戦局の悪化を受け、1943年(昭和18年)に『尾澤福太郎翁壽像』は金属供出されることになった[17]。ただし、同年にはセメントにより像が再建された[17]。太平洋戦争終結後の1951年(昭和26年)には以前と同様に青銅を用いて像が再建された[17]。 沿革岡谷市の前身の平野村は明治年間から製糸業で大きく繁栄していたものの[17]、昭和に入ると昭和恐慌により一転して苦境に喘いでいた[17]。この状況を打開し多角的工業都市として再起を図るため[17]、村政を転換し人心を一新するべく[17]、平野村は町制を経ずに一気に市制を施行することを目指していた[17]。 しかし、当時の市制施行には市役所庁舎の整備が要件となっており[17]、その巨額の費用は村の財政上重大な問題となっていた[17]。当時の平野村役場の庁舎は1901年(明治34年)に建てられたものだったが[17]、村勢の急速な発展により庁舎は手狭となっており[17]、既に時代の要請に応えられるものではなかった。何度も改築計画が持ち上がるがその度に頓挫しており[17]、特に建設費の確保が大きな課題となっていた[17]。この問題を打開すべく、村長の今井梧楼は実業家の尾澤福太郞に寄附を依頼した[17]。この依頼を快諾した尾澤は私財を投じて庁舎を建設し[17][18]、それを丸ごと平野村に寄贈することになった[17][18]。 1935年(昭和10年)3月、尾澤は庁舎の設計を平野村役場に委託し[17]、平野村役場は長野県庁の営繕課に設計を依頼した[17][18]。これを受け、営繕課の技手であった三苫繁實らが中心となって設計された[18]。1935年(昭和10年)6月15日に地鎮祭が執り行われ[17]、そのあと同年6月に着工し[15]、1936年(昭和11年)3月に竣工した[15][17]。施工は岡谷組が請け負っているが[18]、当時の工事はほとんどが手作業であった[23]。一例として、基礎の割栗石については、石を一つずつ並べて砂利を入れて人力で突き固めていた[23]。また、コンクリートを手作業で少しずつ練り[23]、それをロープで壁の型枠の上まで持ち上げて流し込んでいた[23]。これらの技術は高く評価されており、のちに岡谷市の助役を務めた小口文人は[† 3]、壁に亀裂がない点や冬でも縦樋が凍らない点などを高く評価している[23]。 平野村役場は1936年(昭和11年)3月30日にこの庁舎への移転を完了させた[24]。同年3月31日には平野村会としての最後の審議がこの庁舎にて開催された[16][24][† 4]。平野村は同年4月1日に岡谷市に移行していることから[17]、極めて僅かな間のみ平野村役場庁舎として活用されたことになる。 1936年(昭和11年)4月1日の市制施行により岡谷市が設置され[17]、神職を招聘して庁舎にて市制施行奉告祭が挙行された[24]。同年4月26日には初めての岡谷市会議員選挙が行われ[24][† 5]、この庁舎が投票所となった[24]。同年5月23日に市制施行祝賀式や庁舎落成式が屋外で挙行された[24]。なお、同年5月23日には『尾澤福太郎翁壽像』の除幕式も挙行されている[17][24]。以来、この庁舎は1987年(昭和62年)まで岡谷市役所として利用された[15][17]。その間、1957年(昭和32年)には庁舎が増築されて新館が設けられ[17]、1967年(昭和42年)にも庁舎が増築されている[17]。また、この庁舎とは別に、1965年(昭和40年)には消防庁舎・議事堂が建設された[17]。その結果、岡谷市議会の本会議などは消防庁舎・議事堂にて開催されることになった。 1987年(昭和62年)に新しい岡谷市役所庁舎が竣工すると、同年に岡谷市役所はそちらに移転した。その後は特別地方公共団体である諏訪広域連合が運営する諏訪広域消防本部が使用することになり[15][17]、同年に岡谷消防署が入居することになった[17]。その後、新しい岡谷消防署庁舎が竣工したことから、2015年(平成27年)に岡谷消防署はそちらに移転した[15][17]。 その後は公益財団法人である「おかや文化振興事業団」が入居している[25]。また、旧庁舎の保全や維持のため「旧岡谷市役所庁舎保全基金」が発足している[26]。そのほか、映画『ゴジラ-1.0』の撮影が行われるなど[17][27][28][29][30][31]、さまざまな活用方法が模索されている。 年表
組織岡谷市役所の組織構成は時代とともに変動しているが、ここでは一例として2024年(令和6年)4月1日時点の組織図を記載した[32]。執行機関のうち市長部局のみを記載し、教育委員会、選挙管理委員会、監査委員などについては割愛した。また、地方公共団体である市の機関としては執行機関のほかに議決機関も存在するが[32]、そちらについては割愛した。
脚注註釈出典
関連人物関連項目外部リンク
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