山科教成
山科 教成(やましな のりしげ)は、鎌倉時代の公家。左衛門佐・平業房の次男。中納言・藤原実教の猶子。官位は正二位・権中納言。山科家の祖。 経歴童名は金毘羅丸で、後白河法皇の下北面に仕えた。治承3年(1179年)に発生した治承三年の政変を通じて父・平業房が処刑されたのち、母の丹後局が後白河法皇の寵妃となったことから、法皇の命令により藤原実教の養子となる[1]。 後白河院政期後期の文治3年(1187年)元服し、従五位下・中務少輔に叙任される。文治4年(1188年)従五位上・右兵衛佐に叙任されると、文治5年(1189年)正五位下、建久2年(1191年)左近衛少将、建久3年(1192年)従四位下と、母・丹後局の後押しにより後白河院政期末にかけて順調に昇進する。 同年後白河法皇が没するが、建久7年(1196年)従四位上、建久9年(1198年)正四位下、正治3年(1201年)左近衛中将、建仁2年(1202年)右兵衛督と武官を務めながら引き続き昇進を重ねる。当時、左近衛少将・藤原定家は若年ながら上﨟であった教成について、その出世ぶりと人品に反感と憤りを記している(『明月記』)。 建仁2年(1202年)には丹後局と組んで権勢を振るっていた内大臣・源通親が薨去して、後鳥羽上皇が本格的に院政を開始すると、丹後局の威信は急速に失墜する。しかし、異父妹・宣陽門院の威光もあって教成は引き続き昇進を続け、建仁4年(1204年)従三位に叙せられ公卿に列すと、承元2年(1208年)正三位、承元3年(1209年)参議に叙任された。議政官として左衛門督(検非違使別当)を兼ね、承元5年(1211年)には権中納言に昇任される。 建暦2年(1212年)従二位に昇進したのち、建保2年(1214年)権中納言を辞すが、建保3年(1215年)正二位に至る。建保4年(1216年)母・丹後局が没すると遺領の山科荘を相続し、これ以降教成の子孫は山科家の家名を名乗るようになる。承久3年(1221年)承久の乱後の7月に謹慎するが、10月にはこれを解かれて再び出仕した。 官歴『公卿補任』による。
系譜『尊卑分脈』による。 脚注参考文献 |
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