山本善之助
山本 善之助(やまもと ぜんのすけ、1931年(昭和6年)4月1日 - 2001年(平成13年)10月11日)は、日本の写真家。一部文献では山本 善之介とも。 略歴1931年(昭和6年)4月1日、当時の東京市本郷区(現・東京都文京区の一部)で、上野のアメヤ横丁の布団屋(現在のたいまる本店の場所)の七人兄姉弟の五男として生まれる。父:廣三郎、母:冨美子。 1945年(昭和20年)3月、聖橋工業高校(神田駿河台:聖橋高等工学校)を第2学年で戦時動員令にて終了中退。 1946年(昭和21年)4月、東京都立芝商業学校(旧制中学、現東京都立芝商業高等学校)を入学、1950年(昭和25年)3月卒業。 1950年(昭和25年)4月、東京都立芝商業高等学校(新制高校)第4学年編入、1952年(昭和27年)3月卒業(1年間休学)。 1945年(昭和20年)4月、戦時動員令により東京計器製作所(現在の東京計器株式会社と長野計器株式会社の前身)へ入社、終戦により8月退社。 1945年(昭和20年)9月より、外務省、総理府、通商産業省(局長附事務官、1954年退官)を経て写真家へ転身した。[1][2] 1953年(昭和28年)・1954年(昭和29年)にアサヒカメラ賞・優秀作家賞を受賞し、翌1955年(昭和30年)にはアサヒカメラ賞の最優秀作家賞を受賞した。また1960年(昭和35年)には毎日産業デザイン賞も受賞している。[1][2][3] 1960年以降は日本デザインセンターの広告写真を中心としながら、映画・舞台の俳優・女優を撮り続けた。[3] 関係外務省勤務時代は外交官の牛場信彦の下で従事、写真家へ転身後も交流があった。[1][3] 俳優を中心とした人物写真を多く撮り、三國連太郎とも親交が深かった。[4][3] 関連人物作風ポートレート、スナップを得意とし、風景にしても、その中に人物を生かすようにした写真を撮った。女性写真に繊細な感覚を見せ、自然光を巧みに使いこなす。三社祭などのダイナミックな情景写真にも手腕を持ち、雪景色などの風景写真では印画の調子を美しくする感覚の写真家。[1][3] 被写体である相手が芸術家なら芸術家なりに、しとやかならしとやかなりに相手の懐、範囲に向かっていく構えで撮影していく。持ち前の押しの強さで周囲に溶け込む。[5] 主な作品
展覧会
参考文献
脚注 |
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