尾竹越堂尾竹 越堂(おたけ えつどう、1868年2月21日(慶応4年1月28日) - 1931年(昭和6年)12月3日)は、明治から昭和期にかけての浮世絵師・日本画家。 多くの文献が誤っているが、姓の読みは「ODAKE(おだけ)」ではなく、「OTAKE(おたけ)」と濁らないのが正しい。 経歴画号を国一(富山時代)、国弌、観月(大阪時代)とも称す。紺屋を営む尾竹倉松の長男として慶応4年1月28日(1868年2月21日)、越後国白根町(現在の新潟県新潟市)に生まれる。本名熊太郎。幼少のとき東京に出て四代目歌川国政に浮世絵を学んだと伝わる。明治18年(1885年)ごろから国雪と号して『新潟新聞』に挿絵を描き[1]、明治22年(1889年)に富山に移ると、売薬版画、新聞挿絵、絵馬、押絵の下絵などを描いた。明治23年(1890年)に富山越前町に住み、後に総曲輪町、山王町に移った。売薬版画の役者絵、歴史絵を多数描いたほか、明治23年9月23日より富山日報における小説挿絵を担当、人物画を得意として明治32年(1899年)まで描いていた。 明治32年に富山を離れ、大阪を経て後に再び東京府下谷区下根岸へ移り、土佐派の小堀鞆音[要検証 ]に師事する。発明好きでもあり、大阪時代には自ら粉歯磨を作って「大和桜」の名で販売もしていた[2]。明治40年(1907年)ごろ、伊藤博文の命名により越堂と号する。引き札などの下絵制作に携わる。大阪美術会委員、大阪図案意匠絵画会図案部審査員などをつとめる。明治27年(1894年)富山共進会で銅賞、明治33年(1900年)大阪画会で銀賞を受賞。また日本美術院の新画風を学び、巽画会にも会員として加わった。明治44年(1911年)、第5回文展に「韓信」が入選。大正2年(1913年)1月より本格的に東京に居を移すと、兄弟3名で八華会を結成。根岸に住み、実弟竹坡、国観らとともに尾竹三兄弟として活躍した。文展でも大正3年(1914年)第8回展に「さつき頃」(二曲一双)、大正4年(1915年)第9回展に「湖」(六曲一双)、大正5年(1916年)第10回展に「漁樵問答」(六曲一双)を発表し入選を重ねた。 昭和6年(1931年)12月3日、東京府荏原郡駒沢町の自宅で死去[3]。弟子に金森観陽、水上如観がいる。 親族父の倉松も国石の画号をもつ絵師だった[2]。越堂と近所付き合いがあった彫刻家の朝倉文夫の作品に、倉松をモデルにした「尾竹翁」(1913年)がある[2]。弟の染吉(尾竹竹坡)、亀吉(尾竹国観)も著名な画家で、明治末の日本画の世界では、尾竹三兄弟と呼ばれて一時代を築いた[2]。 妻・うた(富山藩士の娘)との間に9人の子を儲けたが、4人は夭折し、1人は実弟・亀吉(国観)の養女となり、残り4人の娘を育てた[2]。長女の一枝は『青鞜』同人の尾竹紅吉(べによし、筆名)として知られ、女子美術学校出の画家でもあり、陶芸家の富本憲吉の妻となった[2]。次女・福美は佐藤春夫に見初められたが交際を越堂に反対され、洋画家の安宅安五郎に嫁いだ[2]。佐藤は福美のことを詠った詩「泉と少女」を『三田文学』に発表している[2]。三女・三井は日本画家の野口謙次郎に嫁ぎ、末娘の貞子は長野県出身の日本画家・尾竹正躬(まさみ、旧姓・武田)を婿養子として迎えた[2][4]。一枝の息子で映画監督の富本壮吉は孫である。福美の娘の美穂は森鷗外の三男森類の妻となる。福美の三男・侃三郎は武者小路実篤の次女・妙子と結婚(結婚後、妙子が戸籍筆頭者となり侃三郎は武者小路姓を名乗るが、実篤夫妻との養子縁組はしていない[5])。 評価美術誌『Bien(美庵)』Vol.43(2007年2月25日号、藝術出版社)の巻頭特集「きみは、尾竹三兄弟を知っているか?」にて、尾竹三兄弟の長兄として紹介された。これを受けて、国際浮世絵学会の機関誌「浮世絵芸術」、三兄弟の地元の『新潟日報』や『北日本新聞』でも『Bien(美庵)』の特集を評価し、尾竹兄弟の画業を再評価するきっかけとなった。 作品売薬版画
木版口絵
肉筆画
脚注
参考文献
関連項目 |
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