寒河江為広
寒河江 為広(さがえ ためひろ、旧字体:為廣)は室町時代から戦国時代の武将。寒河江氏12代。寒河江城主5代。 生涯寒河江元高の次男として生まれるが、長兄寒河江高重の死により寒河江氏を継いだ。高重の没年が不明の為相続時期は不明。応永20年(1413年)大沼大行院の本社を再建したという[2]。 伊達氏は応仁元年(1467年)から文明4年(1472年)までの間に国分氏を3度攻めて和睦するが[3]、この争いに際して寒河江氏庶流の白岩満教は国分氏を支援した[4]。 文明11年(1479年)伊達氏の侵攻を受ける。この時一族内で結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓書を納めている。この時は寒さにより干戈を交えず撤退した伊達氏だが、翌文明12年(1480年)春、再び攻め寄せる。庶流の左沢氏・溝延氏と共に伊達軍を寒河江荘奥深くに引き込み、伊達側大将桑折播磨守宗義を打ち取って撃退した(菖蒲沼の戦い)。同年桑折播磨守の子息が最上満氏に仲介を依頼し、菩提を弔う時宗松蔵寺が慈恩寺近くに開かれた[5]。 文明18年(1486年)9月8日に没し跡を寒河江知広が継いだ。 系譜脚注
関連資料
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