白岩満教
白岩 満教(しらいわ みつよし[4][2])は、室町時代後期の武将。白岩氏4代当主。 生涯当初溝延氏に養嗣子として入ったとされるが、重要性の高まった白岩氏に移り、白岩城の増強を行ったという[注釈 2]。溝延氏には寒河江氏から孝満が入り実権は家臣の安孫子氏が握った[5]。 溝延氏と連携しながら寒河江荘内での影響力を強め、応仁2年(1468年)に寒河江氏の干渉なしに陸奥国の国分河内守[注釈 3]に渡置状を発給し[注釈 4]、文明4年(1472年)山王社 (現:宮内日枝神社)の別当を務める慈恩寺梅本坊に対して熱塩郷(現:寒河江市宮内あるいは西川町睦合)1400苅を寄進した[6]。山王社の由来を記した『山号白岩山養水寺、善行院』によれば、満教とその子・満広(頼広)が用水を切り開き、用水の堰の上に山王社を祀って郷の鎮守としたという[7]。 文明10年(1478年)周防闢雲(びゃくうん)寺で覚隠永本に師事し出羽に隠棲していた牛欄鑑心を招き、洞興寺を建立した[8][注釈 5]。 文明11年(1479年)、伊達氏が寒河江城を攻めるが、寒河江氏一族の結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓紙を納めている[注釈 6](『松蔵寺幹縁疏』[9])。この時は厳冬により干戈を交えず撤退した伊達氏だったが、文明12年(1480年)再び侵攻すると菖蒲沼(現:寒河江市大字寒河江字菖蒲沼)付近で激闘となり、寒河江氏と白岩氏は伊達側大将・桑折播磨守を打ち取っている(菖蒲沼の戦い)。その後、寒河江宗広死後の後継争いに端を発して永正3年(1506年)頃に最上義定が進攻すると、寒河江氏・吉川氏・左沢氏などと共に防いでいる。寒河江宗広の後継は孝広となり、満教の孫・広説が寒河江氏に養子に入り執政を務めた。 この戦いの後最上氏と和睦したとみられ、永正11年(1514年)伊達稙宗が最上氏領内に侵入すると寒河江氏は最上義定に援軍を出し、長谷堂(山形市)で戦闘となって楯岡・長瀞・山辺式部と共に一族の吉川政周が討ち死している。政周には継嗣がなかったため満教の孫が政周の娘婿となり出羽吉川氏を継いだ。永正13年(1516年)最上氏・伊達氏の和睦の仲介をしたという(『安中坊系譜』)。 自らは出羽吉川氏の次男であったが、寒河江川沿岸の溝延氏・白岩氏に入ることで、長期間に渡って寒河江荘に影響力を行使した。孫が出羽吉川氏の婿養子となったことで、現在まで続く寒河江大江氏の血脈は満教の系譜となった。 系譜周辺系図凡例
脚注注釈出典
関連資料
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