出羽吉川氏
出羽吉川氏(でわよしかわし)は、日本の氏族。大江氏の支流である寒河江大江氏(寒河江氏)の一族である。居城は吉川楯[注釈 1]。寒河江荘を支配したのは寒河江氏だったが、出羽吉川氏は大江氏嫡流に当たるため宗家と称した。 概要鎌倉時代から戦国時代寒河江荘吉川[注釈 2]は、鎌倉幕府より大江広元が地頭に任じられた際、多田仁綱が目代として起居した地である[注釈 3]。仁綱はこの地が、故地摂津国多田郷吉川村に似ていることから吉川と名を改め居住したとされる(『安中坊系譜』)。大江広元が亡くなると、嫡男で寒河江荘に潜居していた大江親広が吉川に阿弥陀堂を建てて宗廟としたという。 正平23年/応安元年(1368年)、2代鎌倉公方足利氏満・羽州探題斯波兼頼・奥州管領大崎直持(斯波兼頼の兄)が攻め寄せた漆川の戦いにおいて、総大将大江茂信(溝延城主)始め一族61名が犠牲となる大敗を喫すと、寒河江時氏は寒河江(現寒河江市丸内)の地に移り寒河江氏を称し、溝延茂信の遺児・家広に宗家を継がせたという[注釈 4]。その後代々備前守を称し、血脈が途絶えると同族の左沢氏・白岩氏から養子を取り存続している。また、白岩氏4代満教・寒河江氏18代高基・柴橋頼綱(橋間勘十郎)らを輩出した。 天正12年(1584年)寒河江氏が最上氏によって滅ぼされると、当主・隆広も自害し吉川氏は一時断絶する。隆広の子・良光は蘆名氏を頼って会津へ落ち延び出家し、その後寒河江氏旧臣らの嘆願により吉川阿弥陀堂で大江氏宗廟を守ることを最上義光から許された。僧体であったが慶長出羽合戦に出陣した様子が窺われる[注釈 5]。しかし、慶長8年(1603年)寿斎と嫡子広道は最上義康が暗殺された際にともに討たれた[2]。 江戸時代以降江戸時代を通じて金仲山無量寿院(阿弥陀堂を改めた)の住持を務めた。寿斎の子吉長(宥鏡:安中坊二十六世)は徳川秀忠から御朱印を受け、その子・天宥(宥誉)は次男であったため羽黒山に入り中興の祖と呼ばれた。二十八世義綱(一雲院豊感)は徳川家光から御朱印を受け、その他界に伴って日光山で納経した。その後代替わりで徳川家綱に拝謁した(帝鑑の間)。家光三回忌、家康五十回忌、家綱他界時の納経などを行った。徳川家への納経は8代将軍・徳川吉宗の葬儀まで続いた。 系図
脚注注釈出典参考文献
|