寒河江 宗広(さがえ むねひろ、旧字体:宗廣)は戦国時代の武将。寒河江氏14代。寒河江城主7代。
生涯
寒河江知広の長男として生まれ、明応3年(1494年)父の死により寒河江氏を継いだ。同年最上満氏も死去し最上義淳が跡を継ぎ[1]、伊達尚宗は領内の騒乱のため蘆名氏のもとへ逃れている。
寒河江知広が二親供養のために建立した長州大寧寺子院澄江院を寒河江に移し、瑞龍山澄江寺とした。自らの側室を山野辺氏から受け入れるとともに、娘を山野辺氏、中野氏(中野義清[2])に嫁がせ姻戚関係を結んだ。なお、姉妹も中野義建[3]に嫁いでいる。
同時期に当主となった羽州探題最上義淳が左衛門佐(従五位上相当)であるのに対して、左京大夫(従四位下相当)を称した。
永正元年(1504年)7月1日に没すると、正室の子孝広が幼少であったため後継を巡って家中が乱れた。同年最上義淳も死去し、跡を継いだ最上義定の侵攻を招いた。
系譜
- 父: 寒河江知広
- 母: 不詳
- 正室:高松寺高月桂公大禅定尼[4]
- 孝広 - 6男だが正嫡。童名国松丸、太郎四朗。寒河江城主8代。室楯岡義輔[5]娘。15歳で熊野に詣でる。伊達氏の侵攻を受けるが和睦して退けた。法名陽春院殿大運永公。
- 側室:山辺刑部女
- 生母不明
- 孝賢 - 長男。出家し俊永寺に住む。
- 祥真 - 2男。出家し俊永寺に住む。叔父宗綱が殺害された際、共に殺害されたという。
- 広種 - 5男。出家し法華院光栄を称すが、孝広没後広種と改名して還俗しその跡を継いだ(寒河江城主9代)。兵部大夫。法名福泉寺殿陽巌春公大居士。
- 女 - 高屋知政妻。高屋孝政の母。
- 女 - 山野辺直広に嫁ぎ女子を儲ける。娘は最上義定に嫁ぐ。
- 女 - 中野氏 (出羽国)に嫁ぐ。
周辺系図
脚注
- ^ 『山形市史 史料編一 最上氏関係史料』
- ^ 最上義建の子。胡偉権「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」
- ^ 最上義淳の次男
- ^ 「寒河江町誌」によれば、高松寺は法泉寺三世漢室宗銀の開山。文亀2年(1502年)創建。後に兵火に遭い顔好(大江町)に再建されるが、江戸時代に火災にあって本郷村葛沢に移転した。(「寒河江市史編纂叢書第5・6集」pp.18)
- ^ 楯岡満茂祖父。
- ^ a b 胡偉権「山形最上氏と中野氏・寒河江大江氏―義光のゆかりを探る」
関連資料
- 寒河江市史編纂委員長 阿部酉喜夫『寒河江大江氏』、1988
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 上巻』、1994
- 寒河江市史編さん委員会『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001
外部リンク
関連項目