大寧寺
大寧寺(たいねいじ)は、山口県長門市にある曹洞宗の寺院。山号は瑞雲萬歳山(ずいうんばんぜいさん)。正式名は瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺と称する。現在(2023年)[1]の住職は元山口県立大学学長の岩田啓靖。 歴史応永17年(1410年)[注釈 2]に大内氏一族で長門国深川城主の鷲頭弘忠が、能登国總持寺の禅僧石屋真梁を招聘し、城内に大寧寺の前身となる康福寺を創建したと伝える[3][2]。康福寺は人里に近すぎたため、石屋禅師の高弟智翁永宗が来住した際に協力を仰ぎ、現在の位置に移転して山号を大寧寺に改めた[2]。以降、大寧寺は總持寺の直末寺として高い寺格を維持した。 なお、開基を周防・長門の守護大名大内教弘、開山を智翁永宗とする説もある。ただし、大内教弘は1420年の生まれで、年代的に合わない。 文安5年(1448年)に大内教弘によって鷲頭氏が滅ぼされた後も、大寧寺は大内氏の香華院として庇護された[2]。 政争に疲れて流浪の旅に出ていた元関東管領上杉憲実がこの寺で晩年を過ごし、文正元年(1466年)に病死している[2]。 長享3年(1489年)出羽国寒河江氏13代知広が大寧寺に寺領を寄進し子院として澄江院を建立した[注釈 3]。二親供養のためであったという。当時父の叔父にあたる全岩東純が大寧寺七世住職であった縁により行ったものである。 天文20年(1551年)に大内義隆が家臣の陶隆房の謀反に遭い、山口から脱出後にこの寺に逃れたが、陶軍に包囲される。異雪慶殊(いせつけいじゅ)より戒名を授かった義隆は自刃し、寺も焼失した(大寧寺の変)。その後、毛利氏の庇護を受けて再建された。 寛永17年(1640年)、火災により本堂・山門などが焼失。延宝5年(1677年)に益田元尭により山門が再建され、文政12年(1829年)に衆寮[4]を建替・増改築によって本堂も再建された。 明治維新期の住職、四十五世簣運泰成は七卿落ちで京都より落ち延びていた三条実美を保護したが、廃仏毀釈に反対し、明治2年に発生した奇兵隊脱退騒動の処断に抗議して連座することとなり、山口を脱出し愛知の豊川稲荷に落ち延びた[2]。藩の保護がなくなるなど維持管理が行き届かなくなり、老朽化した山門が解体されるなど明治以後は徐々に荒廃しつつあったが、その史的価値から保護保存の声が高まり、昭和40年代以降に境内や本堂などが県や市の有形文化財に指定された[2]。 平成22年(2010年)4月に歴史資料館「虎渓殿」が開創600年記念事業として開館した。また、同事業に関連して山門再建にかかる費用を6億円と見積っており、現在、再建のための浄財(寄付)を募っている。 法系
文化財など
近隣情報所在地山口県長門市深川湯本1074 交通アクセスその他
注釈・脚注注釈
脚注外部リンク |
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