大野町 (愛知県知多郡)
大野町(おおのまち)は、かつて愛知県知多郡に存在した町。現在の常滑市北部に該当する。 伊勢湾に面する知多半島西側、矢田川の河口部に築かれた町であり、かつては大野湊(おおのみなと)と呼ばれて繁栄した[2]。大野海水浴場は古くからの潮湯治の場であり、「日本最古の海水浴場」とされることもある[3]。 歴史平安時代頃、伊勢湾に注ぐ矢田川や前山川などの下流部である大野谷には、「大野庄」という荘園が存在した。「大野庄」は現在の常滑市北部・知多市南部・阿久比町西部一帯と推測される。1350年(観応元年 / 正平5年)には一色範光が大野城を築き、大野庄は伊勢湾の海運で栄えた。戦国時代のこの地域は佐治氏が支配していた。 江戸時代のこの地域は尾張藩領であり、大野湊は知多半島有数の港として繁栄した[4]。1672年(寛文12年)には江戸に向けた廻船が63あり、正徳年間(1711年-1716年)には大坂に向けた廻船もあったことが記録に残っている[4]。しばしば尾張藩の藩主も大野に潮湯治に訪れており、その際には代官を務めた平野家(大野御殿)に泊っている。 近世から近代の大野は大野鍛冶でも知られており、元禄年間(1688年-1704年)には185人もの鍛冶職人がいた[4]。船鍛冶と農具鍛冶に分かれる大野鍛冶は[4]、尾張国のみならず三河国や遠江国まで足を運んだ。天保年間(1830年-1844年)の大野では時計製造や酒造業も行われていた[4]。大野海水浴場は江戸時代末期から明治時代に刊行された『尾張名所図会』にも描かれている[4]。 明治期や大正期には、武豊港や国鉄武豊線の影響で知多半島東岸では工業が発達し、愛知電気鉄道常滑線の影響で知多半島西岸では観光業が発達した。1874年(明治7年)には大野郵便局が開設されたが、当時の知多半島では横須賀郵便局と亀崎郵便局と合わせて3つしかない郵便局の一つだった。戦前の大野は海水浴客などで栄えていたが、戦後には内海町の内海海水浴場など新興観光地に客を奪われた。 年表
交通鉄道道路娯楽
名所・旧跡
出身有名人脚注注釈
出典参考文献 |
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