慧可断臂図
『慧可断臂図』(えかだんぴず)[1]は、室町時代の雪舟による水墨画・禅画。国宝に指定されている[2]。 中国の禅宗二祖慧可が、初祖達磨に弟子入りするため、自らの左腕を切断して決意を示した、という伝説を描く。 場面伝説によれば、達磨はインドから中国に来て、梁の武帝に面会した後、嵩山少林寺で「面壁九年」と呼ばれる座禅修行に入った[3]。そこに慧可(当時の名は神光[4])が訪れ弟子入りを願ったが、達磨は耳を貸さなかった[3]。何度訪ねても変わらず、ある冬の雪の日、慧可は自らの求道心を示すため、刀で左腕を切断した[5][3]。達磨はこれを受け「達磨安心」と呼ばれる禅問答をし、慧可の弟子入りを認めた[6]。 以上の伝説は『景徳伝灯録』などに記されており[5]、本作含め度々画題になっている[7]。 漢字の「臂」は日本語では「ひじ」を意味するが、本作および中国語では「うで」を意味する[3]。 絵画畳約一条分(縦183.8、横112.8cm)の巨大な紙に描かれており、達磨はほぼ等身大に描かれている[4]。 達磨の衣は極太の淡墨で簡潔に描かれている[6]。そのため身体が背景の洞窟に消え入るかのようだが、顔は濃墨で強調的に描かれている[6]。 慧可の血や口に赤色が使われており、慧可の苦痛が読み取れる[8]。水墨画で墨以外の色を使うことは珍しくないが、本作では効果的な演出となっている[4]。 洞窟のゴツゴツとした岩肌は、「皴法」という中国絵画由来の技法で描かれている[4]。穴が空いた岩は雪舟がよく描いたモチーフである[4]。 本作は様々な解釈ができる[6]。一見コミカルなデザインだが[6]、緊張感が漂う[6][4][2]。大胆さと繊細さ、画面構成の面白さが光る作品とされる[4]。 成立雪舟が明から帰国して約30年後、77歳のとき、1496年(明応5年)に成立した。絵画左側に「四明天童第一座雪舟行年七十七歳謹図之」の款記と「雪舟」「等楊」の印章がある[2]。「四明天童第一座」は雪舟が明で授かった称号である[4]。 絵画の巨大さや精緻さから、権力者からの注文制作と考えられる[2]。 構図などにおいて、明の戴進『達磨六代祖師図巻』の影響を受けていると言われる[9]。 伝来雪舟没後の1532年(天文元年)尾張国知多郡大野城主佐治氏の佐治為貞によって、同地の斉年寺に寄贈された[2][1]。これは別途保存された絹地墨書から分かる[2]。 2004年(平成16年)国宝に指定された[10][2]。雪舟は本作のような人物画よりも山水画を多く残しており、他の国宝5点が山水画であるなか本作が唯一の人物画となっている[2][4]。 21世紀現代では、斉年寺から京都国立博物館に寄託されている[1]。斉年寺には複製がある。 模本として、東京国立博物館蔵の江戸時代の狩野惟信による模本がある[11]。 関連項目脚注
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