狩野惟信狩野 惟信(かのう これのぶ、宝暦3年10月15日(1753年11月9日) - 文化5年1月9日(1808年2月5日)は江戸時代の木挽町家狩野派(江戸狩野)7代目の絵師である。父は狩野典信で、子に狩野栄信がおり、鍬形蕙斎が弟子だった時期がある。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。 来歴狩野栄川典信の長男として生まれる。父が築いた地位を順調に受け継いで、歴代の狩野派の絵師の中でも異例に早い出世を遂げる。明和元年(1764年)12歳で早くも奥御用を務め、父と同様10代将軍徳川家治や老中田沼意次に厚遇され、天明元年(1781年)29歳で法眼に叙せられる。寛政2年(1790年)父の跡をうけ、木挽町狩野家を継ぐ。更に寛政6年(1794年)42歳で法印となり、病死が続いた宗家の中橋狩野家を尻目に、奥絵師四家筆頭の地位を確たるものにする。江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけた。文化5年(1808年)、56歳で死去。 早い栄達の割に画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。 代表作
脚注
参考資料
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