大村 純昌(おおむら すみよし)は、肥前国大村藩の第10代藩主。
生涯
天明6年(1786年)1月25日、第9代藩主・大村純鎮の長男として玖島城で生まれた。享和3年(1803年)1月23日、父の隠居により家督を継いだ。
財政再建を目指して藩政改革を行なうが失敗し、かえって財政窮乏を促進した上、家臣団の反発も招いた。このため、倹約や定免制の採用、他国製品の排除と自国製品の保護、生産化奨励などを行なっていくらか成功させている。
文化5年8月(1808年10月)、長崎にてフェートン号事件が勃発した際は、急を知らせる命を受け、幕府の長崎奉行松平康英と共にイギリス軍艦フェートン号に対して焼き討ちを行う為、藩兵を率いて長崎に急行したが、フェートン号が出航してしまい未遂に終わった。
文政11年(1828年)8月上旬と下旬の二度の嵐により、領内で家屋の倒壊や火災が発生し、溺死傷者も発生した。さらに田畑や山林が甚大な被害を受けた。
天保7年(1836年)11月23日、家督を四男の純顕に譲って隠居した。天保9年(1838年)10月5日に大村で死去した。享年53。
玖島城三の丸に、別邸として梶山御殿[1]を建てた
系譜
- 父母
- 正室
- 側室
- 子女
脚注
- ^ 大正時代に建て替えられ、現在は市の公共施設。
- ^ 陸奥国白川藩主阿部正瞭の養子。
- ^ 河内国丹南藩主高木正明の養子。
- ^ 丹波国園部藩主小出英発の婿養子
- ^ 兄の大村純顕養子、後に大和国高取藩主植村家貴の養子。
大村氏 大村藩10代藩主 (1803年 - 1836年) |
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