大島紬大島紬(おおしまつむぎ)とは、鹿児島県南方にある奄美群島において、主に奄美大島で伝統工芸品としてつくられる織物。手で紡いだ絹糸を泥染めしたものを手織りした平織の絹布、若しくはその絹布で縫製した和服を指す。 通称、及び略称は「大島」。 概要フランスのゴブラン織、イランのペルシャ絨毯と並び、世界三大織物に数えられる。1300年程の長い歴史を持ち、着物の女王と言われている。1975年(昭和50年)に通産省が伝統的工芸品に指定した際、「絹100%である」「先染めした糸を手織りする」等、大島紬であるための条件が明確に定義された[1]。 しなやかで軽く、シワになりにくい上、後述する染色の工程で、糸に鉄分が染み込み着崩れや虫食いが起きにくいため、孫子の代まで長く使うことができるという特徴がある。また、独特の黒褐色を基調とした繊細な折柄の美しさも評価され、日本の絹織物のうちでも高級品として知られる。安い物でも一反30万円程度、最高級品になると数百万円する。 奄美大島以外にも鹿児島市や都城市など、様々な地域で製造されている。一方で、奄美大島には事業者でつくる「本場奄美大島紬織物協同組合」があり、奄美大島で作られた大島紬には「本場奄美大島紬」という認定マークが付けられ、その価値が高くなる[1]。現代では「色大島」「白大島」など色調や柄の多様化が進んでいる[2]。また、着物だけでなくコースターや小銭入れといった小物の生産も盛んになっており、以前より人々の手に取りやすい価格帯で大島紬を楽しむことができるようになっている[3]。一方、近頃は職人の高齢化が進み、後継者不足が問題となっており、存続の危機に瀕している[4]。 生産地大島紬は、鹿児島県奄美大島の奄美市を中心とする奄美産地と、鹿児島県鹿児島市を中心とする産地に2大別される。本場大島紬は奄美大島で誕生し、発展したものだが、この技術が鹿児島本土に伝わったのは1874年(明治7年)といわれている。本場大島紬には組合が奄美と鹿児島市の2カ所あり、本場大島紬の証明として地球儀印と旗印の証紙がつけられている[5]。 奄美市は平成18年、奄美地方の中枢都市であった名瀬市、笠利町、住用村と合併し、奄美市となった。奄美大島の中部から北部にかけて位置し、面積は島全体の約4割を占めている。広大なマングローブの森などの多様な自然環境や生物多様性が世界的に認められ、2021年(令和3年)7月26日に「奄美大島、徳之島、沖縄島北部及び西表島」として世界自然遺産への登録が決定した。また、古くから伝わる島唄や八月踊りといった島ならではの伝統文化や、各地域で保存されている史跡、建造物など、有形無形の文化財が数多く遺されており、大島紬もその一つである[6]。奄美市には本場大島紬の生産の全工程の見学や泥染めなど各種体験できる施設として「奄美大島紬村・大島紬製造工場観光庭園[7]」や「夢おりの郷[8]」がある。 鹿児島市は、鹿児島県の中部に位置する。鹿児島県の県庁所在地で、中枢市に指定されている。本場大島紬が本土に伝わったことをきっかけに工場等が設置され、徐々に大島紬が発展していった。戦中は鹿児島での生産はストップしたが、その後は戦中に鹿児島に疎開した奄美出身者も加わり、本場大島紬として生産を再開し、現在も鹿児島市を中心に生産されている[5]。鹿児島市には大島紬の商品販売、レンタル、工業見学、文化体験などができる「大瀬商店[9]」や本場大島紬の歴史、生産工程や大島紬の美術館などを見学できる「奄美の里[10]」がある。
地球印(鹿児島県奄美大島産)鹿児島県奄美大島で生産された本場大島紬には地球印の証紙が貼られる。また、職人による手織りの場合には経済産業大臣指定伝統的工芸品の伝統証紙も貼られる[12]。機械織りの場合は手織りとは異なる地球印の証紙が貼られるが、伝統証紙は貼られない。 旗印(鹿児島県鹿児島市産)鹿児島県鹿児島市で生産された本場大島紬には旗印の証紙が貼られる。奄美大島産のものと同じように「手織り」「機械織り」で別々の証紙が貼られる。手織りの場合は台紙が水色の産地証紙とともに、経済産業省の伝統証紙が貼られる[12]。機械織りの場合は台紙がピンク色の産地証紙が貼られ、伝統証紙は貼られない[12]。また、泥染めには泥染証紙、草木染めには草木泥染証紙がそれぞれ貼られる[13]。 鶴印(宮崎県都城市産)大島紬は鹿児島県だけでなく宮崎県の都城絹織物事業協同組合でも生産されており、宮崎県産の大島紬には鶴印の証紙が貼られる[12]。 <大島紬の証紙一覧>
第二次世界大戦以前は鹿児島市産、奄美大島産ともに共通の旗印の産地証紙が使われていた。しかしながら、奄美大島は戦後の1946年から1953年までアメリカ軍政権下にあったため、日本国旗がデザインされている旗印の産地証紙の使用が禁じられた[14]。その後、奄美大島で新たに産地証紙として地球印の証紙が採用されたことにより、現在でも鹿児島市産、奄美大島産で区別されている。 歴史大島紬の発祥の歴史については諸説があり、未だに明確にはされていない。しかし、1300年前にはすでに古代染色が行われていたと伝えられている。染色は、古代染色と同じ技法で、奄美に自生するテーチ木などを使って行われていた。これが現在の大島紬の染色技法の源流と考えられている。重要工程の泥染めの歴史は古く、正倉院の書物の中にも記述がある。起源としてもいくつかの説が伝えられている。初期の大島紬は、手紬糸を用いて地機で織られ、自家用として島民が着用していた [15]。 現代の大島紬につながる文書記録では享保5年(1720年)、薩摩藩の指示により島役人以外の紬着用を禁じている[16]。そのためそれ以前より生産が行われていたと考えられ、黒砂糖とともに藩の重要な財源であった。幕末の記録『南島雑話』には、「織立はつやなけれども、程久しくつや出て至つてよく、縞がらも色々あり」と記録されている。明治維新によって奄美が薩摩藩の支配から解放され、貿易や金銭流通が自由に行われるようになった1879年(明治12年)頃から、大島紬が市場で取引されるようになった[17]。1890年(明治23年)4月に行われた第3回内国勧業博覧会への出品で高い評価を得たあと、各地の品評会・物産会への出品を続け、知名度が上がっていった。 鹿児島に紬工場の設立も進んだ。1901年(明治34年)に業者統一、進歩発展、製品検査による粗製品の防止と品質向上を目的として組合員3000人で名瀬市に鹿児島県大島紬同業組合が設立された。これが現在の本場奄美大島紬協同組合の前身である。当初は検査規定の厳しさと組合の組織率の低さから検査が徹底されていなかったが、1904年(明治37年)に織物消費税が新設されたことにより、組合による製品検査の後、税務署が税額査定を求めたため、組合に加入せざるを得なくなった[15]。また時期を同じくして、永江伊栄温と永江当八の父子によって締め機による精巧な絣加工が確立され技術的にも進歩を遂げた[17]。そして大島が紬と言えるのは明治初年くらいまでであり、現在では撚糸を使い紬とは言えなくなっている。名称を付けるなら「大島絣」である。それまでの大島製作法は現在の結城紬とまったく同じものであり、ただ製糸する時に使う糊が結城では小麦粉、大島では海苔(ふのり)、イギスといった海草を使う違いのみである。 生産が最盛期だった1973年(昭和48年)9月には大島紬の学校が開設され、織りの実習やデザインの指導なども行っていたほか、泥染め作業や織りの実演を披露する「大島つむぎ産地まつり」も行われていた[18]。 製造工程大島紬は、糸自体に柄を付けるために絹糸を綿糸で仮織りをし、それを染めたり加工したりして、解いて最後にまた織るため、細かく分けると50近い工程を経て作られる。分業制のため、それぞれに専門の職人がおり、職人の手から手へと織物が渡っていく中で、少しずつ完成形が浮かび上がる。全工程が手作業で、図案から製織まで、早いもので半年から1年近くかかるため、価格の大部分は長期間に渡る作業代といえる[19]。複雑な大島紬ほど製作日数がかかる。
大島紬の伝統的絣模様大島紬は、事前に計算されて生み出された、その細かな点と点を合わせて作る絣の美しさが特徴とされている[21]。昔、奄美大島の人々は美しく広がる自然を柄のモチーフにしていたが、時代や工技術の研究・革新により、現在では古典的な幾何学模様(伝統柄)はもちろんのこと、 複雑繊細な各種の花鳥紋様、山水調などの日本の伝統的紋様にいたるまで、多種多様に渡っている[22]。 【モチーフ(人工)】
購入や見学大島紬は全国各地の呉服店や通信販売などで買うことができる。奄美大島と喜界島には、購入のほか泥染めや織りを見学・体験できる工房・施設がいくつかある[7]。奄美大島だけではなく、鹿児島県鹿児島市にある「奄美の里」でも奄美の自然や文化を堪能でき、大島紬の草木染め、織り、着付け体験ができる。
上記で紹介した工房以外にも大島紬に関連する体験が可能な工房はある。 最近では大島紬と洋装がコラボレーションしたものや、小物も多く販売されており、着物だけではない大島紬の楽しみ方が増えている。 脚注注釈出典
関連項目外部リンク
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