大供
大供(だいく)は、岡山県岡山市北区にある町丁である。同市の市庁および北区役所の所在地。なお、当地から分立した大供表町(だいくおもてまち)と大供本町(だいくほんまち)も、歴史的一体性を考慮して、当頁にて記述する。 郵便番号は大供が〒700-0913(岡山中央郵便局管区)、大供表町が〒700-0912(岡山中央郵便局管区)、大供本町が〒700-0911(岡山中央郵便局管区)。人口は、大供が1403人(男性630人、女性773人)、大供表町が1265人(男性611人、女性654人)、大供本町が239人(男性117人、女性122人)。世帯数は大供が886世帯、大供表町が653世帯、大供本町が110世帯[1]。 概要岡山市中心市街の南寄り、旧国道2号線と西古松・南方間幹線道路(市役所筋)の交差する大供ロータリー(大供交差点)の周辺にあたる[2][3]。 元来の大供(明治22年以前の大供村の範囲)の内、昭和38年7月に西部を厚生町1丁目(当初は大供厚生町と称した)に分割し、昭和39年7月に国道北側の東側を柳町2丁目に編入した。さらに、昭和44年7月、東部の一部を春日町・鹿田町1~2丁目などに分割し、宇野線以西を新屋敷町3丁目、西之町、野田1丁目に分割した。残る大供の地を、南部西側は大供本町・南部東側は大供表町、北部(旧国道2号以北)を3丁目、中部(旧国道2号南部)東側を1丁目、中部西側を2丁目に区分けした[2][4]。 大供1丁目に岡山市役所・北区役所があり、以前は岡山貯金事務センター(岡山地方貯金局)も所在した。同2丁目には、労働基準監督署や大供第二公園があり、以前は近畿中国森林管理局岡山森林管理署岡山事務所(岡山営林署)も所在した。同3丁目には瀬戸内海放送や岡山医療技術専門学校、日本たばこ産業岡山支店なども所在する[2][3][5]。 大供表町はかつての大供村の中心的な地域であり、かつては庭瀬街道沿いを中心に商家が発達し、式内社論社の石門別神社があり、現在も所在する。そのほか、同街道周辺に岡山市立鹿田小学校、岡山市立鹿田認定こども園などが所在し、また市役所筋沿いの水道局前交差点にJA岡山等もある[2]。 小・中学校の学区公立の小・中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている[6] 。
沿革歴史当地は旭川のデルタから発達した古い沖積平野の一部であり、弥生時代後期(西暦100~200年頃)の土器が発掘されている[2]。 古代から中世にかけては、当地周辺一帯は鹿田荘と呼ばれ栄えた。平安時代には興福寺南円堂の法華会料田となった。花山天皇の時代(984~986年)頃には、備前国守藤原理兼の鹿田荘検察に端を発し、 荘司や寄人の居宅300余戸を焼き払い、地子米や財物を掠奪するという事件があったことが『朝野群載』に載っている[2]。 江戸時代には御野郡大供村と称され、『吉備温故秘録』に、石高1,661石7斗3升、田畑64町2反5畝12歩、家105軒、人口474人とあり、村中央を庭瀬街道 (現在の市役所筋と一部並行)が南北に通り、現在の大供表町で西方へ向きを変えていた。庭瀬口(現大供1丁目の東北隅あたり)に名物の饅頭屋があったとされる[2]。 明治22年6月の町村制施行にあたり、大供村は西古松・東古松・岡・内田の4村と合併して鹿田村を置き、同31年8月、奥田村を合併。大正10年2月、鹿田村が岡山市に編入した。旧大字、つまり旧鹿田村大字大供を町名として残し存続したが、昭和44年7月実施の町区改訂で前述のように分割・区分けされた[2]。 大供という地名の由来は不詳である[2]。
年表
人口・世帯数等
主要施設
交通
参考文献
脚注関連項目外部リンク |