多久 儀四郎(たく ぎしろう[1]、1892年(明治25年)[注釈 1] - ?)は、日本のスポーツ黎明期の陸上競技(中距離走・長距離走)選手。
生涯
熊本県生まれ。旧制玉名中学校(現在の熊本県立玉名高等学校・附属中学校)を卒業し、東京高等師範学校に入学[4]。玉名中・東京高師で金栗四三の1年後輩にあたり[4]、全盛期の金栗に鍛えられた「金栗門下生」と評される選手である[4]。
1914年(大正3年)11月2日の全国陸上競技大会(現在の日本陸上競技選手権大会)では1500m走で4分44秒2を記録した(当時の日本記録)[5][注釈 2]。1915年(大正4年)5月2日の第2回日本オリンピック大会(豊中運動場)[注釈 3]でも1500m走で優勝している[8]。1915年(大正4年)5月の極東選手権競技大会(第2回大会、上海)に出場。8マイルロードレースで金メダル、880ヤード走で銀メダル[1]。1915年(大正4年)の日本陸上競技選手権大会では1500m走で4分33秒8の記録を出して連覇した(所属は「東高師出」)[5]。また、1916年(大正5年)には日本陸上競技選手権大会800m走で優勝している[9]。
1915年(大正4年)、東京高等師範学校数学専修科卒業。卒業後は愛知県立第一中学校(現在の愛知県立旭丘高等学校)に赴任し[4]、数学教師となった。当時の愛知一中校長は、生徒指導に長距離走を取り入れたことで「マラソン校長」の異名をとった日比野寛であり、文部省に働きかけたものという[4][注釈 4]。
1917年(大正6年)に企画された「東海道駅伝徒歩競走」(初の駅伝競走の大会として知られる)では、金栗四三・日比野寛らとともに選手選択編成委員も務めた[4]。この大会は当初、「東京・神奈川等(紫色)」「京都・愛知等(赤色)」「大阪・兵庫等(青色)」の3チームで競うことが計画され、選手選択委員がチーム編成をおこなったが[注釈 5]、結果として「関東組(紫色)」と「関西組(赤色)」の2チーム対抗となり[12]、「関西組」は日比野が校長を務める愛知一中の在校生を中心として同校関係者によって構成されるチームとなった。教員としては多久のほか、前校長の日比野[注釈 6]および体操教師の寺島鍬次郎がチームに参加している。東海道駅伝徒歩競走において、多久は4月27日に第1区(京都 - 草津間、25km)を走った[4][注釈 7]。
なお、駅伝終了後間もない同年5月8日の極東選手権競技大会(第3回大会、東京)には日本代表として出場し、880ヤード走(約800m)と1マイル走(約1600m)で優勝した[1]。また、極東大会最終日(5月12日)に番外プログラムとして行われたマラソンにも参加した。さらに5月20日には豊中運動場で開催された日比大会[注釈 8]でも880ヤード走・1マイル走で優勝[18]。880ヤード走では山内晋作(日本歯科医学校)[注釈 9]と競り合って優勝し、記録(2分11秒)は極東大会を上回った[18][19]。
1918年(大正7年)の日本陸上競技選手権大会では5000m走で優勝(所属は天王寺師範学校教員)[20]。1918年(大正7年)11月9日の第4回日本オリンピック大会[注釈 10]では1500mに出場し、日本記録を12秒以上縮める4分32秒2で優勝した[7][21]。1919年(大正8年)の極東選手権競技大会(第4回大会、マニラ)では日本代表選手団の監督を務めるとともに、1マイル走で銀メダルを獲得[1]。1920年(大正9年)の日本陸上競技選手権大会では1500m走で3回目の優勝を果たしている[6]。
1933年(昭和8年)時点では本郷中学校(現在の本郷中学校・高等学校)教諭。
備考
- 多久が愛知一中に新任した際の教え子であった梅原半二(のちに自動車技術者となり豊田中央研究所所長を務める)は、数学教師の多久の熱のこもった授業ですっかり代数・幾何のファンとなり、学問の面白さを知ったという回想を残している。
脚注
注釈
- ^ 1917年(大正6年)の東海道駅伝徒歩競走時、多久は数え年で26歳であった。『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』では1889年(明治22年)生まれとあるが、中学・東京高師で1年先輩にあたる金栗四三(1891年生まれ)との関係からも誤りと見られる。
- ^ 日本陸上競技選手権大会公式サイトでは「4分44秒4」とある[6]。
- ^ 豊中運動場で開催される「日本オリンピック大会」は大阪毎日新聞社主催の大会で、大正時代には大日本体育協会主催の全国陸上選手権大会(現在の日本陸上競技選手権大会)と並ぶ全国規模の陸上競技大会であった[7]。
- ^ 多久の赴任については金栗が関わる逸話が残されている。当初は日比野の働きかけによって金栗が1914年(大正3年)に卒業したのち愛知一中に赴任することが決まっていたが、金栗は1916年ベルリンオリンピック(第一次世界大戦により中止)を目指しているためにしばらく東京に残って取り組みたいと日比野に直談判し、日比野は快諾した[4]。金栗に代わって2年後に多久が愛知一中に奉職することになったという[4]。
- ^ 明石和衛・金栗四三・坂本信一が「東京・神奈川等」チーム、日比野寛・多久儀四郎が「京都・愛知等」、木下東作・高瀬肇・春日弘が「大阪・兵庫等」を担当した[12]。
- ^ 衆議院議員選挙出馬のため、3月に校長を辞職している。
- ^ 対する「関東組」の選手は一高の飯塚博で、このほか長距離走者として知られた同志社大学の加藤富之助も個人参加した。
- ^ 正式名称は「日本・フィリピンオリンピック大会」。大阪毎日新聞社主催。極東大会に参加したフィリピン選手を招聘したもの[18]。
- ^ 出典[19]では「山之内晋作」とある。
- ^ スペインかぜ流行下で開催されたこの年の第4回日本オリンピック大会は、翌年開催される第4回極東選手権競技大会の代表選考大会も兼ねた[7](大日本体育協会西部支部による代表選考会。東部支部は同日に東京で別個に予選会を開いている[7])。
出典
参考文献
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