北本 正路(きたもと まさみち、1909年6月16日 - 1995年[1])は、日本の陸上競技(中距離走・長距離走)選手、大日本帝国陸軍軍人(最終階級は大尉)。
経歴
和歌山県出身。和歌山県立伊都中学校(現在の和歌山県立伊都中央高等学校)を経て、慶應義塾大学に入学。
1929年、第5回明治神宮体育大会で5000メートル優勝[2]。同年には日本陸上競技選手権大会男子5000mでも優勝。
1930年には第9回極東選手権競技大会の1500メートルに出場し、津田晴一郎に次ぐ第2位となった[3]。
1931年、第6回明治神宮体育大会で5000メートル優勝(二連覇)[2]。1932年に、日本陸上競技選手権大会では男子5000m(15分25秒6)および10000m(31分33秒6)で優勝した。またこの間、1930年から1933年にかけて箱根駅伝に出場し、いずれも区間賞を獲得している。
また大学在学中に、1932年ロサンゼルスオリンピックで男子5000メートル競走に出場した[5]。
1936年ベルリンオリンピックでマラソンの金メダリストとなる孫基禎のコーチを務めている[6]。
予備役少尉として応召し、ニューギニア戦線に出征。1943年、東部ニューギニアのキアリからラエへ、フォン半島内陸の山岳部を越えての補給が可能であるかを調査するため、50人の特別工作隊を率い、周辺住民の協力を獲得して標高4500mの山岳越えのルートを開いた。当時の新聞に「東部ニューギニア戦線の華」たる壮挙として紹介された[7](サラワケット越えを参照)。なお、このルートはのちにラエで包囲下に置かれた第51師団の撤退路となった。
戦後は兵庫県宝塚市で鉄工所を経営[7]。
イベントプロデューサーの北本正孟は子[1][6]。
著書
- 『ニューギニア・マラソン戦記』(にれの木出版、 1968年)
- 「栄光のマラソン部隊」、『太平洋戦争ドキュメンタリー』第22巻(今日の話題社、1970年)
脚注
注釈
出典
参考文献
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