城英一郎
城 英一郎(じょう えいいちろう、1899年(明治32年)4月1日 - 1944年(昭和19年)10月25日)は、日本の海軍軍人。海兵47期。最終階級は海軍少将。 生涯1899年(明治32年)4月1日、熊本県熊本市東坪井町26番地に蚕糸業を営む城喜又と梅の4人兄弟姉妹の長男として生まれる。県立熊本中学校を経て、海軍兵学校および陸軍士官学校(第31期)を受験し、双方に合格している。1916年(大正5年)8月31日、海軍兵学校47期に151名中28位の成績で入校。1919年(大正8年)10月9日、海軍兵学校を成績順位115名中第28位で卒業、海軍少尉候補生となる[1]。 1923年(大正12年)12月1日海軍大尉進級。1925年(大正14年)1月7日、霞ヶ浦海軍航空隊教官兼分隊長となる。霞ヶ浦海軍航空隊では副長の山本五十六に操縦を教授する。1926年8月20日、中村千代子と結婚。千代子の姉・静子は山本栄(最初の神風特攻隊が編成された201空の司令)の夫人[2]。 1930年(昭和5年)12月1日、海軍大学校甲種第30期学生となる。在学中の1931年(昭和6年)12月1日に海軍少佐に進級。1932年(昭和7年)11月26日、海軍大学校甲種を成績順位21名中第6位で卒業。卒業時の作業答案を航空本部技術部長である山本五十六に提示した。特別攻撃のことを話し合い、最後の手は「肉弾体当たり」「操縦者のみで爆弾搭載射出」と話した。さらに山本に将来の機種に対する意見を求めた[2]。 1940年(昭和15年)11月1日、軍令部出仕。11月15日、海軍侍従武官兼軍事参議院幹事。1941年(昭和16年)10月15日、海軍大佐に昇進。12月、太平洋戦争開始。 1943年(昭和18年)6月5日、山本五十六の国葬に参列。22日、特攻隊の構想をまとめる。28日に作案[3]。実現のため専門家に協力を求めており、6月29日に艦政本部、6月30日に航空本部第一部第一課の宮川義平、造兵監督官・森川敏人を訪れ爆撃効果、機材関係について聞いている。6月29日に航空本部総務部長大西瀧治郎にも会って意見を求めている。大西は「意見は了とするがまだその時ではない」と答えた。7月2日にも再度大西に上申した。城の日記には、特攻は上官の命令によって実行するものではないこと、上も考慮が必要だろうから黙認と機材と人材さえあれば足りることを記述している[4][3]。城のこの構想は後に大西が開始した神風特別攻撃隊につながっている[5]。城は7月17日に具体的な編成などをさらに研究した[3]。それが「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」として作成された。 1944年(昭和19年)1月20日、横須賀鎮守府附兼特務艦「摂津」艦長。1944年(昭和19年)2月15日、航空母艦千代田の艦長を拝命。6月のマリアナ沖海戦での敗北後、体当たり攻撃以外に戦勢を回復する手段はないと結論を出し、機動部隊長官小沢治三郎中将、連合艦隊司令長官豊田副武大将、軍令部総長及川古志郎大将に対して特攻隊の構想を上申する[6]。 1944年10月25日、小沢中将指揮下でレイテ沖海戦に参戦し囮艦隊としてハルゼー大将率いる艦隊の誘引に成功したが、敵空母艦上機及び敵巡洋艦隊の攻撃によって千代田は撃沈された。乗員に救助されたものはおらず、城大佐を含め総員が戦死した。享年45。海軍少将特別進級。1968年(昭和43年)6月29日、勲二等旭日重光章が追贈された。 「特殊航空隊ノ編成ニ就テ」
年譜
脚注
参考文書
関連項目 |
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