土屋詩朗
来歴・人物1901年(明治34年)1月5日、秋田県に生まれる[出典 5]。 1918年(大正7年)、正式な名称は不明だが、秋田県横手市の旧制中学校を卒業して東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)に進学[出典 6]。声楽を学ぶ傍ら、中島六郎、樋口信平に師事してヴァイオリンを修業する。ところが、同年のシベリア出兵により、土屋は出征され、1年だけロシアに在住して間も無く帰国。その後、正式な名称は不明だが、土屋四郎という芸名で劇団に所属し、全国各地を巡業した[出典 3]。また、浅草オペラの舞台にも出演していたが、1924年(大正13年)12月、松竹蒲田撮影所へ入社[出典 3]。以後、主に脇役として多くの作品に出演した。1934年(昭和9年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によると、東京府東京市下谷区中根岸町[注釈 1]に住み、身長は5尺7寸(約172.7センチメートル)、体重は17貫600匁(約66.0キログラム)、趣味は運動、演劇鑑賞である旨が記されている[出典 6]。 1930年(昭和5年)に公開された牛原虚彦監督映画『若者よなぜ泣くか』以降の出演作品が見当たらず、以後の消息は不明だが、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によれば、現在に至るまで多数の作品に出演しているという旨が記されている[7]。以後の活動・消息は明らかでないが、1942年(昭和17年)9月当時の「東宝映画俳優専属リスト」に本名の土屋徳四郎という名が記載されている為、同年前後に東宝に入社したと思われる。戦後も東宝の専属俳優としてジャンルを問わず多数の映画に出演[8]。1960年代前半頃までは土屋博敏という名義で活動していた[8]。土屋詩郎と表記される資料も存在するが、誤字であるかは不明である。 1970年以降、映画出演の記録がない。没年不詳。土屋の来歴について記載されている資料はほとんど存在しない。 出演作品映画
テレビドラマ脚注注釈出典
出典(リンク)参考文献
外部リンク
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