土倉正彦
土倉 正彦(とくら まさひこ[1])は、江戸時代幕末期の備前岡山藩家老。明治維新後は新政府参与・岡山藩大参事。諱は一享。 生涯嘉永2年(1849年)、岡山藩家老土倉一善の子として岡山に生まれる。慶応2年(1866年)に一善の隠居により家督相続し、岡山藩家老、佐伯1万石の領主となる。慶応3年(1867年)、藩兵を率いて上京し、御所清和門を守護する。 慶応4年(1868年)、新政府より刑法事務局判事に任命される。同年、新政府より参与に任命される。明治元年(1868年)の戊辰戦争において、会津征討越後口総督仁和寺宮嘉彰親王の軍監として兵を指揮し、功績を挙げ報奨金を賜った。 明治2年(1869年)、岡山藩大参事となる。翌3年(1870年)に辞任し、華頂宮博経親王に従いニューヨークに留学する。帰国後、病のために郷里で療養に努めるも、明治7年(1874年)4月10日没した。享年26。 明治36年(1903年)11月13日、明治維新の功労に対して従四位が贈位された。また、明治39年(1906年)9月17日、土倉家当主の光三郎が男爵に叙され華族となった。 家族・親族妻は、池田政昭長女で土倉一昌の養女となった万亀(まき)[1]。 正彦の死にともない、養祖父一昌が再家督した。一昌が明治8年(1875年)に没すると、元美作勝山藩主三浦義次の二男・鉚太郎が家督を継いだが離縁、いったん万亀が女戸主となったのち、三浦義次の三男光三郎が養子に迎えられた[1]。 脚注参考文献
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