伊木忠恭伊木 忠恭(いぎ ただゆき、天保7年9月11日(1836年10月20日) - 明治9年(1876年)11月14日)は、幕末の岡山藩最後の筆頭家老。伊木家15代当主。通称は若狭。 生涯14代伊木忠澄と側室との間に岡山城下で生まれる。忠澄は天保10年(1839年)に正室と婚姻したが、忠恭は天保7年(1836年)生まれであるため、正室との婚姻前の子である。幼名は陽之丞、のち右京助。 弘化4年(1847年)、正室に嫡子が生まれたため、陽之丞は第2子となった。しかし、正室の子は早世したため嘉永4年(1851年)に陽之丞が嫡子となる。元治2年(1865年)4月、忠澄の隠居により、30歳で家督を相続する。 大政奉還の翌年、慶応4年(1868年)より始まった戊辰戦争では、岡山藩は官軍側として参戦した。父・忠澄が木戸準一郎(孝允)と面談し、備中諸藩の鎮撫を約束した。これに伴い、忠恭は諸藩の恭順書を取り付けた。 明治4年(1871年)、廃藩置県により岡山藩は岡山県となったが、大参事には父・忠澄が任じられた。 明治6年(1873年)、関白・九条尚忠の子を養嗣子に迎え、忠善とする。なお、忠善は明治22年(1888年)に伊木家を離籍し、靏殿家を再興、靏殿(のち鶴殿)忠善と名乗っている。 明治9年(1876年)11月14日、死去。享年41。父・忠澄より10年早い死であった。墓所は岡山市の東山墓地。 参考文献
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