国防婦人会
国防婦人会(こくぼうふじんかい、旧字体:國防婦󠄁人會)は、1932年から1942年まで存在した日本の婦人団体。略称は「国婦」。割烹着と会の名を墨書した白タスキを会服として活動。出征兵士の見送りや慰問袋の作成など、銃後活動を行った。 概要1931年(昭和6年)9月に満州事変が、1932年(昭和7年)1月に上海事変が勃発した当時、大阪港の近所に住む主婦らが、出征兵士や応召のため帰郷する若者に湯茶を振舞ったのが活動の原点である。会の目的は「国防」、言い換えれば、「銃後」の戦争協力である。1932年に軍とは直接のつながりのない一般婦人があつまり「大阪国防婦人会」として発足。軍の支援を取り付けて「大日本国防婦人会」となり、全国に拡大。逆に軍は国婦を銃後の戦争協力や思想統制に利用した。 「国防は台所から」国婦には「国防は台所から」というスローガンがあった。 国婦の初期には、婦人たちは割烹着のまま台所を出て街頭に繰り出し、さまざまな「国防」活動を行った。
など。 一方、軍は婦人たちの協力を必要としながらも、彼女らが家庭を顧みなくなるまでの活動は歓迎せず、台所=家庭をしっかり守ることを期待した。 会服国防婦人会は割烹着にたすき掛けを会服とした。会の制服を割烹着に襷掛けという活動しやすいものに統一したのは創設者安田せいの夫、久吉の発案だったとも伝えられている[3]。割烹着は婦人の集団内での「着物競争」を防ぐとともに、新規参加を容易にし、相互の平等感により会員の結束を強化するのに役立った。 会費大阪では、低廉ではあるものの会費を徴収して運営していた。 会費は統一されていなかったが、一般大衆でも無理なく払えるよう低廉な額に押さえられていた。分会によっては会費を徴収しないところも少なくはなく、廃品回収で運営費を捻出する分会もあった。 沿革1932年3月、大阪港の近所、市岡に住む主婦、安田せいと三谷英子が中心となり、大阪朝日新聞の大江素天のほか、港の見送りで親しくなった市岡警察署(戦後は港警察署)主任、憲兵特高課員らの協力を得て「大阪国防婦人会」として結成された。その後、軍部の強力な後押しを受けて、その年の10月には「大日本国防婦人会」が結成された[注釈 1][4]。 居住地単位や職場単位の分会方式で急速に会員を増やして全国に分会を持つにいたり、先に結成されていた愛国婦人会(内務省系、1901年 - 1942年、略称愛婦)や大日本連合婦人会(文部省系、1931年 - 1942年、略称連婦)をしのぐ大組織となっていった。1940年12月には、国婦総本部は会員数9,052,932人としている[5]。 しかし戦争が本格化すると、秘密保持のためとして出征兵士の見送りも制限されるようになっていき、防空演習や労力奉仕などでは割烹着の非活動性が批判をうけるようになり[6]、最終的に、割烹着はもんぺにとってかわられ、国婦は並立していた婦人団体、愛婦・連婦と統合され「大日本婦人会」(1942年 - 1945年、略称日婦)となった。 略年表
国防婦人会館国婦発祥の地、大阪では、同会のための会館を自分たちの手で作ろうと決め、醵金を募り、1936年(昭和11年)に起工し、1937年(昭和12年)3月1日、国防婦人会館(正式名、大日本国防婦人会館関西本部会館)の落成式をとりおこなった[14]。 この建物は戦後、進駐軍に接収された後、返還され、財団法人大阪府婦人会館として運用され、1960年代に大阪府が借り上げて「大阪府婦人会館」とした(1982年に「大阪府立婦人会館」に改称)[15]。1994年(平成6年)4月1日に大阪府立女性総合センター(ドーンセンター)[16]ができると、婦人のための会館としての役割を終えた。 評価兵隊ばあさん藤井忠俊は新書『国防婦人会』の中で、安田せいらの大阪港での活動を「兵隊ばあさんの発想」「兵隊ばあさんの実力」と表記している[17]。 白の軍団軍では、総動員体制の中、「銃後」の女たちも思想戦、経済戦の戦士として重要だと認識していた。 加納実紀代は国婦を「白の軍団」と形容した[18]。 女性解放の側面女性解放の視点で見ると、家にしばりつけられ、自由な外出もままならなかった一般女性を家庭から「解放」して家庭外での活動を可能にし、また女子労働者や遊郭の女たちもいったん割烹着と襷を身につければ「平等」にあつかわれたといえる。市川房枝や平塚らいてうは、手放しではないものの、ある種の女性解放をもたらしたとして国婦活動に一定の評価を与えている[18]。 関連人物
関連文献
機関紙
その他ドキュメンタリー参考文献
脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク
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