大洞 元吾(おおぼら げんご、1888年3月3日 - 1975年11月22日)は、日本の撮影技師、映画監督である。日本映画の創成期に、M・パテー商会で撮影技師になり、日活向島撮影所で監督に転向した。
人物・来歴
1888年(明治21年)3月3日、岐阜県稲葉郡島村(現在の岐阜市北島)に生まれる。
梅屋庄吉のM・パテー商会に入社、撮影技師となる。同社は、1912年(大正元年)9月、4社合併で「日本活動写真株式会社」を設立する。1913年(大正2年)、東京の隅田川ほとりに日活向島撮影所が建てられ、藤野泰、男沢粛、坂田重則らとともに同撮影所に合流する[1]。同撮影所では、吉沢商店出身の監督である小口忠、1917年(大正6年)に入社した田中栄三らの監督作のカメラを回した。
1919年(大正8年)、シベリアに遠征した日本軍に従軍し、長篇ドキュメンタリー映画『西伯利遠征軍』を撮り上げる。1921年(大正10年)、佐藤紅緑原作の『侠艶録』で劇映画の監督としてデビューした。監督デビュー後も、田中栄三監督の『京屋襟店』や『髑髏の舞』の撮影技師を務めている。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で同撮影所が崩壊した後は、日活京都撮影所に異動となり、現代劇のための第二部で監督や撮影技師を務めた。翌年には同社を退社している。
櫻映画社を設立、ドキュメンタリー映画を手がけた[2]。
1975年(昭和50年)、新藤兼人監督のドキュメンタリー映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』に出演した後、同年11月22日、死去した。満87歳没。
大洞の監督・撮影した作品は、東京国立近代美術館フィルムセンターにはいっさい所蔵されていない[3]。マツダ映画社は大洞の監督した『二人静』(1922年)のフィルムプリントを所蔵している[4]。
おもなフィルモグラフィ
M・パテー商会時代の詳細が不明である。特筆以外は撮影技師である。
日活向島撮影所
- 1918年
- 1919年
- 1920年
- 1921年
- 1922年
- 1923年
日活京都撮影所第二部
- 1924年
櫻映画社
- 1932年
- 『青年日本』 : 監督不明、短篇
- 『婦人の國防』 : 監督不明、短篇、大日本国防婦人会関西本部
その後
- 1975年
脚注
外部リンク