小口忠
小口 忠(おぐち ただし、1878年12月1日 - 1942年5月24日)は、日本の映画監督、脚本家、実業家である[1][2][3][4][5][6][7]。本名同じ[1][2][3]。日本映画の初期において、吉沢商店、日活向島撮影所の脚本家、筆頭監督として数多くの作品を手がけ、横田商会・日活関西撮影所の牧野省三、帝国キネマ演芸の中川紫朗らとともに、初期量産時代の日本のサイレント映画の基礎を築いた人物として知られる[3]。40代で映画界を引退し、妻を助け、実業家に転身した[1]。 人物・来歴1878年(明治11年)に生まれる[1]。正確な生地は不明であるが、東京府東京市(現在の東京都)であると推定されている[3]。『日本映画監督全集』には「1883年ごろ」と記されているが、これは衣笠貞之助の小口との初対面のとき、見た目で受けた印象での年齢感から、同項を執筆した岸松雄が逆算して求めた数値である[3]。 本郷座の座付作家(1906年 - 1914年)であった佐藤紅緑に弟子入りし、その速記者を務める[8]。1908年(明治41年)、東京市京橋区南金六町13番地(現在の東京都中央区銀座8丁目10番8号)にあった吉沢商店が佐藤紅緑を部長に考案部を設置、これに所属する[3]。同僚には、大熊暗潮、中川慶二、斎藤五百枝、桝本清、岩崎舜花(岩崎春禾)らがいた[3]。同社が目黒に新設した撮影所で製作するサイレント映画の脚本を書き、演出したが、小口が関わった具体的な作品名は不明である[3][5][6]。 美顔術についての取材の際に寺本みち子(のちの小口みち子、1883年 - 1962年[9])と出会い、1910年(明治43年)6月に結婚する[1][2]。 東京市京橋区京橋1丁目7番地(現在の東京都中央区京橋)のみち子の美容館のとなりに新居を構え、1911年(明治44年)9月には第一子総子が生まれている[1][2]。1913年(大正2年)、長女総子が麻疹で死去した[1]。 1912年(大正元年)9月10日、同社は、福宝堂、横田商会、M・パテー商会との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立、翌年10月には向島撮影所が新設され、小口らは同撮影所の所属となり、「狂言方」と呼ばれる脚本家兼監督の係の筆頭となる[3]。向島撮影所は700本を超える作品を製作したが、田中栄三や細山喜代松らが監督として加入するまで、そのほとんどの作品を小口が手がけている[3]。撮影時の小口のスタートのかけ声は「あ、行くよ」、カットのかけ声は「あ、終わり」、フィルムのロールチェンジが必要なときには「待った」と声をかけたという[3]。小口は洋装を身につけることはなく、たいていが和服の着流しで、布製の財布を懐にしまっていたという[3]。田中栄三、溝口健二は、小口の助監督を経て監督に昇進した弟子である[10]。 1921年(大正10年)の正月興行から、同撮影所に「第三部」が設置され、小口が手がけて来た吉沢商店以来の新派劇から、女優を使用する新劇への改革が図られるようになり[11]、1922年(大正11年)8月20日に公開された『寒山寺の一夜』を最後に、同社を退社した[3][5][6][7]。退社後は、みち子が手がける事業のうち、本格化したマスター化粧品の販売を手がけ、実業家に転身した[1]。1923年(大正12年)には、三越日本橋本店に美容室を出店している[1]。同年9月1日に起きた関東大震災の折には、家屋および隣接する美容館が被災し、全焼したが、ただちに復興した[1]。このとき、小口が多くの作品を手がけた日活向島撮影所も壊滅し、ほとんどの作品が失われた[12]。岸松雄が溝口健二に聞いたところによると、晩年の小口は、病気により、手足を切断する不幸に見舞われたという[3]。 1942年(昭和17年)5月24日、肺炎により死去する[1]。享年63(満61-62歳没)[1]。墓所は多磨霊園。このとき妻みち子は京橋の美容館を閉じ、美容室は三越日本橋本店の出店のみに縮小したという[1]。みち子は第二次世界大戦後、1962年(昭和37年)7月27日、満79歳で老衰により死去した[9]。 フィルモグラフィクレジットはすべて「監督」である[5][6]。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名[5][6]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[13][14]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。 日活向島撮影所すべて製作は「日活向島撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[5][6][7]。
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |