南金六町南金六町(みなみきんろくちょう)は、1872年(明治5年) - 1930年(昭和5年)3月4日に、東京府東京市京橋区にかつて存在した町丁である[1]。現在の東京都中央区銀座8丁目7番地から同10番地のうち、東を三原通り、西を西五番街に挟まれた部分の南半分にあたる[1]。旧町名芝口金六町(しばぐちきんろくちょう)、それ以前は出雲町(いずもちょう)の南部分であった[2]。 概要そもそも江戸期には、東海道の起点から見て芝地域への入口に位置し、汐留川にかかる新橋(芝口橋)の両岸で「芝口」を冠した地域である[1]。当時、隣接して存在した幕府拝領地「金春屋敷」をやがて併合し、同屋敷の下女たちに端を発する「金春芸者」あるいは「新橋芸者」と呼ばれる芸妓の本拠地であった。 1872年(明治5年)の銀座大火以降、銀座煉瓦街が建って近代化が進み、「日本初」の近代的建築物、店舗がこの地に登場する。「日本初のビアホール」である「恵比寿ビヤホール」が1899年(明治32年)に5番地(現在の銀座8丁目9番11号)に、「日本初の映画専門館」と「日本初の撮影所」を開いた「日本最古の映画会社」である吉沢商店は13番地(現在の銀座8丁目10番8号)に田中久重が1875年(明治8年)に9番地(現在の銀座8丁目9番15号)に開いた工場は、「東芝発祥の地」とされている。このほか、1894年(明治27年)には3番地(現在の銀座8丁目8番8号)に千疋屋フルーツパーラーが、1899年には4番地(現在の銀座8丁目8番11号)に帝国博品館勧工場が建つ。なお、「日本初のカフェー」とされるカフェー・プランタンが現在の銀座8丁目9番16号にあったが、関東大震災後に日吉町から移転してきたものである。 1923年(大正12年)9月1日、関東大震災を経て、1930年(昭和5年)3月4日には、北に隣接する「出雲町」とともに「銀座八丁目」に改称し、「南金六町」の町名は消滅していくが、2012年(平成24年)5月現在、「南金六町」の時代から同地に残る店舗がいくつかある。「銀座千疋屋」は1999年(平成11年)に銀座5丁目の店舗に統合されて撤退するが、それを除いても、青柳総本店は「青柳ビル」として、帝国博品館勧工場は「博品館」として、銀座天國は建物を替えてそのままに、金春湯も同様に現在も営業している。 →「§ 番地ごとの施設」を参照
地理京橋区の最南部に位置する[1]。1872年(明治5年)の銀座大火後に煉瓦街対象となった地域である[3]。平坦な土地であり、住居や商店が立ち並んだ。 東は三十間堀川(のちに埋立・消失)を隔てて木挽町7丁目(のちの木挽町8丁目)が、西には日吉町が隣接している[1]。北は出雲町が、南は汐留川(のちに埋立・消失)を隔てて芝区芝口1丁目(現在の新橋1丁目)と隣接しており、汐留川には「新橋」が架かっている[1]。「南金六町」に丁目はなく、1番地から15番地まであり、1番地から13番地は北西から南東に向けて順に並ぶが、14番地および15番地は1番地の西側にある。[1]。 河川橋梁
歴史地名の由来江戸期に京橋川の南に芝田金六が長屋を開き、1657年(明暦3年)の明暦の大火の後に一帯を「京橋金六町」(のちの木挽町1丁目、現在の銀座1丁目のうち昭和通りより東部分)と称するようになり[4]、その飛地と考えられている。芝田金六の名が由来である。 沿革
交通鉄道道路
番地ごとの施設カッコ内は現在の住居表示「銀座8丁目」以下の地番。
天下堂デパートは、南金六町1番地の北隣「出雲町2番地」、精養軒西店は「采女町」、当時のカフェーパウリスタは現在と異なり「南鍋町」にあった。 史跡脚注
参考文献関連項目外部リンク |
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