小栗風葉
小栗 風葉(おぐり ふうよう、本名:加藤 磯夫(旧姓:小栗)、1875年(明治8年)2月3日 - 1926年(大正15年)1月15日)は日本の小説家。愛知県生まれ。 来歴愛知県知多郡半田町(現半田市)に薬種商(美濃半)の長男として生まれる。幼名磯平、のち磯夫と改めた。少年の頃から近世稗史小説を好み、柳亭種彦、為永春水らを耽読、また嵯峨の屋おむろ「初恋」などに感動し、『少年園』などに投稿、1889年、家業を継ぐ勉強のため上京。済生学舎、商業素修学校を経て、錦城中学校に学ぶ。1891年高等学校の入試に失敗し一時不良となるが、文学に志を持ち、家業は弟に任せ、尾崎紅葉の硯友社に入門[1]。1893年九州を放浪し、その経験をもとに「片靨」を書き読売新聞に掲載。1894年に徴兵検査のため一旦帰京するが、家族と進路について対立した末に廃嫡される。再び上京後、兄妹の近親相姦を扱った「寝白粉」を1896年『文藝倶楽部』に発表、ついで「亀甲鶴」を幸田露伴の紹介で『新小説』に発表し文名を確立した。1900年に豊橋市の素封家加藤倉次の長女の加藤籌子(かずこ)と結婚して婿養子となる。 田山花袋と親しく、花袋の示唆で西洋文学を読み、エミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサン、ショーペンハウエルなどに影響を受け、数々の作品を発表、門下に岡本霊華、真山青果、中村武羅夫がいるが、彼らによる代作が多く、のち名声を落す一因となった。また師紅葉が『金色夜叉』を未完のまま死ぬと、その続き『終編金色夜叉』を執筆した[1]。 一躍風葉を有名作家としたのは、紅葉の没後、日露戦争後の世情の中で、ツルゲーネフ『ルージン』に想を得て1905年より読売新聞に連載した『青春』三部作である。これは広く読まれたが、次第に自然主義文学が勃興し、以後あまり振るわずに終わった。谷崎潤一郎がデビュー前、自身の将来に不安を抱いていると、「君だって小栗風葉くらいにはなれるよ」と言われたという。 その後、花袋の『蒲団』に刺激されて自然主義派に傾き、『恋ざめ』で中年の恋を描いたが、次第に代作、翻案が多くなり、国木田独歩の死をきっかけに、「戸塚党」と呼ばれた風葉門下の青果、武羅夫、沼波瓊音らと花袋が衝突、風葉も花袋と決裂するに至る。1909年に発表した『姉の妹』は発禁扱いとなった[1]。 晩年は豊橋に隠棲し[1]、花田町中郷に新居を立て、留月壮と名付け、亡くなるまで同地で過ごした。1926年1月15日、心嚢炎に肺炎を併発して豊橋の自宅で死去。墓所は豊橋市羽根井西町共同墓地。戒名は友慶院釈風葉[2]。 妹は哲学者・梅原猛の義母に当たる。 豊橋市三の丸会館に、記念碑が建てられている[1][リンク切れ]。 主な作品
参考文献
脚注
外部リンク
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