石井嘉穂 (陸軍軍人)石井 嘉穂(いしい よしほ、1890年(明治23年)10月19日[1][注 1] - 1982年(昭和57年)7月4日[2][3])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。 経歴山口県出身[2][4]。1912年(明治45年)5月、陸軍士官学校(24期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官した[5]。1920年(大正9年)11月、陸軍大学校(32期)を卒業した[2][4][6]。 1928年(昭和3年)3月、歩兵少佐に進級[1]。1930年(昭和5年)8月、陸軍兵器本廠付兼第4師団司令部付となる[1]。1932年(昭和7年)8月、歩兵中佐に昇進[1]。第4師団外事部主任として国防婦人会の発展に尽力し[7]「国防婦人会の父」とも言われた[8]。 1935年(昭和10年)3月、支那駐屯軍参謀に転じた[4]。1936年(昭和11年)8月、歩兵大佐に進級し京都連隊区司令官に就任した[4]。1937年(昭和12年)8月、歩兵第18連隊長に発令され日中戦争に出征[2][4]。南京戦、徐州会戦、武漢作戦などに参戦した[2]。1939年(昭和14年)3月、陸軍少将に進級し留守第3師団司令部付に転じた[2][4]。同年6月、歩兵第108旅団長に発令され再び中国戦線に出征し、1941年(昭和16年)3月、留守第4師団司令部付に転じた[2][4]。 1941年10月、陸軍中将に昇進し下関要塞司令官に就任[2][4]。西部軍付を経て、1942年(昭和17年)10月、第32師団長に親補され中国戦線に出征し、その後、南方戦線に転じてハルマヘラ島に駐屯し、モロタイ島の戦いを指揮して終戦を迎えた[2][4]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[9]。 1982年7月、胃癌により京都府宇治市の京都小倉病院で死去した[3]。 栄典
脚注注釈
出典
参考文献
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