和泉町 (安城市)
地理高浜川水系の半場川流域に位置する[5]。江戸時代に油ヶ淵が湖沼化する前は、衣浦湾に面する入り江となっていた[6][5]。国道23号、愛知県道299号南中根小垣江線が町域を縦断している。 歴史中世以前弥生時代中期の中本郷貝塚、弥生時代中期・後期の八斗蒔遺跡(はっとまきいせき)や惣山古墳などがあったが、いずれも後に壊滅した[6][5]。現在は弥厚公園となっている北本郷古墳を残すのみである。 鎌倉時代の13世紀初頭には伊勢神宮の神領地に指定され、泉御園と呼ばれたことが名称の由来の一説である[5]。石川丈山邸の藪の中に湧き出ていた泉が由来とされることもある[5]。江戸時代には一文字で泉と表記されることも多かった[5]。 近世元和4年(1618年)には五ケ野原をめぐって桜井村と争いを起こし、和泉村の久津名七右衛門が殺されたとされる[5]。この頃には五ケ野原が桜井村、小川村、和泉村、城ケ入村、中根村の5か村による入会地となる慣例が確立したとされる[6][5]。寛永20年(1643年)から元禄13年(1700年)にかけても城ケ入村との間で土地の帰属を巡る争いが起こった[5]。 江戸時代の初めは甘縄藩領であり、元禄16年(1703年)に旗本の松平万次郎と江戸幕府の相給村となった[5]。松平氏の知行は明治維新期まで存続したが、天領分は宝永7年(1710年)に刈谷藩領となった[6][5]。寛政2年(1790年)に刈谷藩領で寛政一揆が発生したことで領地替えの処罰を受け、寛政4年(1792年)には刈谷藩領分が福島藩領となった。1869年(明治2年)にはこの福島藩飛び地が重原藩領として独立した。 村高は『寛永高附』によると573石余、『元禄郷帳』によると622石余、『天保郷帳』や『旧高旧領』によると774石余だったが、油ヶ淵に近かったことから水害による損害も大きかった[5]。17世紀後半には綿作が発展し、延宝8年(1680年)以後の年貢割付状には木綿畑が登場する[6]。18世紀初頭には畑高の半分以上が綿畑高だった[6]。 和泉村の豪農としては都築弥厚がおり、文化9年(1812年)からは松平家の代官を務めた[5]。都築弥厚は天保3年(1833年)には石高2070石、酒造株4160石余を有していたが、天保年間の和泉村には9軒以上の酒造家があったうえ、特産品として和泉そうめんがあった[5]。 近代1888年(明治21年)の町村制施行に伴い、1889年(明治22年)には碧海郡和泉村が発足した[5]。1891年(明治24年)の戸数は312、人口は1601だった[5]。 1906年(明治39年)5月1日、米津村、西端村、東端村、根崎村、城ヶ入村、榎前村の一部が合併して淵辺村が発足し、5月7日には明治村に改称した。明治村の大字として和泉が設置されている[5]。 現代太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)1月13日には三河地震が起こり、明治村和泉にあった約400戸のうち約300戸が倒壊、83人の死者を出す甚大な被害があった。合同葬の最中に空襲警報が発令されたことで、火葬できずに埋葬したとされる。 1955年(昭和30年)4月1日、明治村が分割されて安城市・碧南市・西尾市に編入され、この地は安城市に編入された[5]。安城市の大字として和泉が設置されている[5]。1956年(昭和31年)には安城市に和泉町が設置された[5]。1968年(昭和43年)の和泉町の世帯数は534、工場数は25、商店数は24である[5]。1970年(昭和45年)の世帯数は566、人口は2,908である[5]。 施設
名所・旧跡・観光スポット
交通
出身者脚注
参考文献
関連項目 |