呉服元町
呉服元町(ごふくもとまち)は、佐賀県佐賀市の町名。佐賀市中心部に位置しており、江戸時代佐賀城下町にあって長崎街道が通った。近世以降も中心市街地の商店通りとして賑わう。呉服町名店街、元町商店街、中央マーケットの3つの商店街が所在する。 地理近世の佐賀城北方・長崎街道沿いにあった呉服町および元町を前身とする。現代の町域は、国道264号東いちょう通り(貫通道路)から数百m北、県道30号大財通りの西側沿道、裏十間川と十間堀川の間に広がる。隣接する町は、北が大財1丁目、東が高木町と柳町、南が松原2丁目・3丁目、西が中央本町と白山2丁目。 全域が都市計画法に基づく佐賀都市計画区域の市街化区域・商業地域で、建ぺい率80%・容積率400%の制限がある[5]。 産業2014年時点で町の事業所数は100を数える。産業構成をみると、卸売業・小売業が事業所・従業者ともに半数近くを占め、次いで宿泊業・飲食サービス業、その他のサービス業が多い。
歴史呉服町・元町の起源佐賀城下では江戸時代初期、旧村中城(龍造寺城)の周囲に佐賀城が築かれ、その北方に城下町が造られた。 『鍋島勝茂公譜考補』によると、佐賀城は1602年(慶長7年)に一部で建設が始まり、1608年(慶長13年)に総普請、1609年(慶長14年)に天守閣が竣工し完成、藩主鍋島勝茂が本丸に移る。城下町は、1591年(天正19年)に城の北西に位置する佐賀郡蛎久(かきひさ)村(現・佐賀市鍋島町蛎久)から町が移され町人が移住したのが起源である。当初は六座町・伊勢屋町・中町・白山町の4町で、次第に拡大していった。本格的町割りは、1608年の総普請で家中屋敷と町小路が建設された際に行われたと考えられる。その後、1789年(寛政元年)や1803年(享和3年)の資料では城下町は33か町と記されており、呉服町や元町なども列記されている[7]。 呉服元町で現在も営業を続ける中で最も創業が古い店として、安永年間(1772年 - 1781年)創業と伝わる店がある[8]。江戸期の資料を見ると、寛政元年(1789年)幕府巡見報告には、呉服元町の前身の諸町として、蓮池町、上芦町、高木町、呉服町、元町、東魚町の6か町が記されている[9]。 なお、呉服町および元町は、佐賀城下を通る長崎街道に面していた。城下東口の構口から入った場合、牛島町、柳町、蓮池町の次が呉服町で、ここまで道は真っ直ぐになっている。呉服町沿いの街道を北に曲がると元町で、その先を曲がると白山町、米屋町、中町(いずれも現白山2丁目)で、その西にも城下町が続く[10]。 また、隣接する旧・高木町(現呉服元町)の願正寺が佐賀藩内の浄土真宗寺院の触頭(藩内の総本山)と定められ、明治 - 昭和期の民謡『蓮池節』に「願正寺参り」と唄われたように、多くの参詣者を集めた。その中には呉服を買い求めに立ち寄る人々がおり、呉服町の形成に影響した[11]。
街道の宿場として江戸期、長崎街道における公用の貨客輸送に用いる札馬(駄賃馬)を置く「馬次所(馬継所)」、および飛脚の運ぶ公的書類などを宿場で引き継いだ記録を書き残す「問屋場」が、佐賀城下の街道沿いに東西1か所づつ計2か所置かれていた(馬次所と問屋場は同じ場所にあった)。西の1か所は長瀬町に、東の1か所は呉服町にあった。1759年(宝暦9年)の記録『御領中郡村附』には馬次所が、伊能忠敬の『測量日記』内1812年(文化9年)旧9月の記述には問屋場が、それぞれ呉服町にあったことが記されている[13]。 しかし、1800年(寛政12年)長崎奉行の泊まる宿として呉服町に「本陣」が設けられると、旅行者が集まる馬次所や問屋場が本陣と同じ町にあると警備の都合が悪いことから、馬次所・問屋場は隣の元町に移された。1854年(嘉永7年)の『呉服町・元町竈帳』では元町に所在したことが記されている[13]。 なお、1637年(嘉永14年)頃、馬は東西各30頭づつ計60頭配置されていた[注 1]。のち1772年(明和9年)までに、馬の数は計100頭に増やされている。1783年(天明3年)頃には、本馬(=荷物1駄分・目方40貫まで)1頭1里につき24文、人足1人(5貫目まで)につき12文であったが、交通量が増えて煩雑になったため、幕府に増額を願い出て働きかけを続けた結果、同年10月に24→41文、12→21文への増額(中山道並み)が認められ、幕末まで続いたという[注 2][13]。 願正寺願正寺は城下の旧高木町・現呉服元町に所在する浄土真宗(西)本願寺派の寺院で、建立は1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの直後である。関ヶ原にて西軍に属した鍋島勝茂は、読みが外れ敗北、徳川家康の信を失う。この戦いに際して鍋島氏は、西本願寺の准如に勝茂の妻女や龍造寺高房の身辺保護を依頼していた。決戦の後勝茂は、小城郡晴気村(現小城市)出身の僧侶、円光寺元佶を通じて家康に陳謝し、立花宗茂の討伐を条件に赦免を受ける。そして帰国後間もなく、准如と西本願寺への恩に報いるため、願正寺を建立した。このとき、佐賀藩領内の浄土真宗寺院を全て西本願寺派に転派させるとともに、願正寺の配下に置く措置も執った[14]。 西本願寺派内において肥前国の法頭職(拠点)に指定された願正寺は、慶長年間より、領内の浄土真宗門徒に対し「開山番料」という名の銀銭の徴収を開始した。集められた資金ははじめ願正寺から西本願寺に納められていたが、1721年(享保7年)までに願正寺が直接受納することが認められた。初めは納付率が高かったものの次第に滞納が増加し、明和年間には藩が末寺に対して番料の一時建て替えなどを指示、また大庄屋などの町役人・村役人を徴収にあたらせるなど、徴収に力を入れていた[15]。 なお、願正寺の鐘楼は1696年(元禄9年)旧8月から1854年(安政元年)旧5月まで、城下の市民に広く時刻を知らせる時鐘として用いられた。1753年(宝暦3年)の記録によると、2人が昼夜交代で勤務し、日中の明六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)(いずれも不定時法)までの間鐘を撞いた。宝暦年間頃、鐘楼堂は傷んで建て替えが必要となり藩に願書を出している。のち、藩の許可を得て境内で万人講(富くじ)を開催して資金を集め、1768年(明和5年)8月にようやく建て替えられている。その後、鐘自体の劣化が進んで音の響きが悪くなり、1854年から時鐘は白山町の龍造寺八幡宮で撞くようになった[16]。 仮本陣(茶屋)と本陣長崎街道において上使(幕府の役人)が宿泊しもてなす宿は「本陣」または「茶屋」が充てられ、藩が運営した。江戸の初期から中期まで、佐賀城下には本陣がなく、願正寺と称念寺が茶屋(仮本陣)として用いられ、長崎奉行なども宿泊した。2つの茶屋は、藩主の休憩所に用いられていたものが転用されたと考えられる[17][18]。 江戸後期、寛政年間になると長崎奉行の宿泊の頻度が増え、本陣の設置が求められるようになる。そこで、呉服町で御用商人を営んでいた野口恵助が私邸を提供した。その際、野口は講を催して資金を調達した上で門や塀を新築し整えたため、1800年(寛政12年)藩は野口に裃を授与して表彰した。また、当初野口は本陣となった邸内に住んでいたが、藩が隣接する屋敷を買い上げてそこに移住、本陣は地主である野口から藩が借用しその地子銭(地税)は免除された[19]。 1843年(天保14年)の『呉服町絵図』には、呉服町の東端、東方から裏十間川の晒橋を渡ってすぐの街道北側に本陣屋敷が見える。屋敷は柵と塀、濡門付きで描かれており、広さは1段1歩半、他に屋敷9歩とあり、安政年間に藩が買収したり献上したりして数度にわたり拡張したことも記されている。またこの頃著された『呉服町本陣見取図』には間取りが描かれており、「御書院」「寝所」「御次」「家老屯」「御膳所」「医師」「祐筆」などの部屋名を見ることができる[20]。 現在、跡地はマンションになっており、塀の一角に説明版が設けられている[18]。 また当時有数の広さを誇っていた本堂は、1883年(明治16年)8月の第1回から1886年(明治19年)1月の第7回まで、佐賀県議会の臨時議事堂として使用された[21]。 近現代:商業地呉服元町が現在の地名となったのは、住居表示が実施された1969年(昭和44年)12月1日からである。この範囲は1889年(明治22年)佐賀市の市制施行から1969年まで、呉服町と元町(中央マーケットを含む)の全域および、大財町(大財三区および六反田)、上芦町、高木町、千代町(旧・蓮池町)、東魚町の各一部であった[22]。 近代に入ると呉服町付近は佐賀市の商業地として興り、大正から昭和中期には3つの銀行店舗があった。 1896年(明治29年)に佐賀貯蓄銀行が設立され、呉服町の裏十間川沿い(現在の旧佐賀銀行呉服町支店の土地)に本店を構えた。後の1924年(大正13年)に佐賀貯蓄銀行は破たんするが、翌1925年(大正14年)その跡地に建物を新築して唐津銀行が佐賀支店を開設した。この建物が1934年(昭和9年)現在の外観への改修を経て現存する旧佐賀銀行呉服町支店である。唐津銀行は1931年(昭和6年)合併に伴い佐賀中央銀行と改称したが、本店は旧行から引き続き唐津市であり呉服町はしばらく佐賀支店のままとなった[注 3][23][24][25]。 また、1909年(明治42年)在東京の大手銀行として初めて佐賀県に進出した不動貯金銀行(東京府)は呉服町に佐賀支店を開設した[注 4][24]。1917年(大正6年)には佐賀市水ヶ江町に本店を置く肥前銀行が呉服町に佐賀支店を開設、1920年(大正9年)には同行の本店になった[注 5][24][26][27]。 呉服町にできた佐賀市最初の大型商店が「丸木屋呉服店」で、1920年(大正9年)10月に開店し4階建ての店舗を有したが、1927年(昭和2年)に金融恐慌の煽りを受けて閉店する[24]。跡地には1933年玉屋が進出[28]、同年末、5階建ての店舗を有し当時九州で5番目の百貨店となる「玉屋呉服店」が開業、翌1934年(昭和9年)には「佐賀玉屋」に改称する[29]。佐賀玉屋は、終戦から20年後の1965年(昭和40年)に中の小路の中央大通り沿いに移転するまで[29]、南里呉服店とともに佐賀市内随一の大型店であった。 佐賀県内の地価の最高地点は、1911年(明治44年)に柳町から変わって以来、1968年(昭和43年)松原町の中央大通り沿いに変わるまでの間、呉服町であった。このことからも佐賀市街の中心地だったことがうかがえる[24]。 戦後、1963年(昭和38年)に呉服町名店街はアーケードを設置した。また1966年(昭和41年)からは、呉服町名店街・元町商店街と近隣の白山商店街などが合同で夏の夜市「さが銀天夜市」を開始するなど、昭和40年代は商店街が安定して拡大していった[30][31]。 一方、玉屋移転後の1960年代後半から、佐賀市中心市街地では大型店の出店が相次ぎ、呉服町(呉服元町)も同様であった。[32]。 1970年(昭和45年)、5階建て衣料品店「ミヤコ」が開業[32]。1974年(昭和49年)、南里が4階建ての衣料品店「南里本店」を新築開業した[30][32]。1979年(昭和54年)には、明治後期から呉服町に商店を構えていた「窓乃梅」が寿屋と共同で大型店を開業、下層階に核店舗として寿屋のスーパー、上層階に窓乃梅の衣料品エリアが入居する形を採った[30][32][31]。 対する商店街では、昭和50年代に入ると店舗の多くが卸売業中心から小売業中心へとシフトしていった。やがて中小の商店街と大型店の競争が起こったが、中心市街地全体でも同様の傾向で、この地域の小売業は昭和50年代頃最盛期を迎えたと見られている[31]。 昭和60年代に入ると小売業店舗の郊外への拡散が始まる。1987年(昭和62年)には、紳士服店や家電量販店が郊外のバイパス沿いに相次いで進出した。1991年(平成3年)の大規模小売店舗法(大店法)改正はこれを加速させる[30][31]。 この環境変化により中心市街地の空洞化・衰退が進んだ[30][31]。呉服元町では、1999年(平成11年)に南里本店が閉店し、寿屋佐賀店が撤退、さらに佐賀銀行呉服町支店は老朽化した店舗から撤退し大財1丁目に新築移転した。2005年(平成17年)には窓乃梅も閉店する[30]。2004年(平成16年)に元町商店街協同組合が、2008年(平成20年)には呉服町名店街協同組合がそれぞれ解散[31]、翌2009年(平成21年)には呉服町のアーケードが撤去された。 これに歯止めをかける活性化策として、窓乃梅の跡地に佐賀県国保会館が誘致され2013年に完成[31]。2010年には住民と商店主らにより「街なか再生会議」が発足、別に設立されたまちづくりのNPO「まちづくり機構ユマニテさが」と共に民間のアイデアで活性化立案を始めた。空き店舗の利用、南里本店跡など空き地でのコンテナ型のチャレンジショップ提供などの施策が効果を挙げ、呉服町の空き店舗率は2010年から2016年にかけて5割から3割に低下した[31]。 世帯数と人口2022年(令和4年)1月31日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]。
直近30年ほどの人口をみると、周辺の佐賀市中心市街地の傾向も同様で、バブル期後半から平成不況期にかけて大きく減少した後、マンション建設の影響などもあって、緩やかに増加する推移をたどった[33]後、再び減少しつつある[34]。
出典:2000,2010,2020[35]1992,2004,2014[33], 2017[34] 小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[36]。
交通道路
バス
文化・史跡・人物
施設公共施設
主な商業施設・事業所
関連項目脚注注釈
出典
参考文献
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