名古屋港跳上橋
名古屋港跳上橋(なごやこう(みなと)はねあげばし)は、愛知県名古屋市港区の堀川河口部の西側に位置し、1980年(昭和55年)まで運行していた東海道本線の貨物支線(通称「名古屋港線」)の旧1・2号地間運河に架設された鉄道用の跳上橋である。旧1・2号地間運河可動橋[1]、堀川可動橋とも称する。可動橋の第一人者である山本卯太郎の設計である。 概要1909年(明治42年)に笹島駅と2号地の名古屋港駅を結ぶ臨港鉄道の東臨港線[2]が開通した。それを1号地まで延伸[注 1]する鉄道工事に伴って、1号地と2号地の間にあった運河での船舶の航行を可能にするよう、東神倉庫(現三井倉庫)の全額寄付[注 2]によって建設された。1927年(昭和2年)の竣工で、日本では現存する最古の跳上橋[注 3]である。当時は、頻繁に可動桁が昇降し、その下を船舶が行き来した。船舶の荷役作業もこの付近で行われ、蒸気機関車や貨物自動車が盛んに出入りした。その後、国内での輸送手段の変遷などにより、名古屋港駅以東が廃線となり、1987年(昭和62年)から可動部の桁を跳ね上げた状態で保存[注 4]されている。1999年(平成11年)2月17日、国の登録有形文化財に登録される[1]。2009年(平成21年)2月6日、経済産業省が認定する近代化産業遺産となる。2016年(平成28年)、土木学会選奨土木遺産に選ばれる[3]。 使用されなくなって20年余が過ぎた、2009年(平成21年)現在では、一部で枕木の脱落や橋桁のコンクリート剥離など損傷が目視で確認できる状態である。 構造4連の桁により構成され、そのうち1径間が可動桁で、上部カウンターウエイト式である。カウンターウエイトの頂部は、鉄骨アームを介して鉄柱に連結され、可動桁が昇降しても、そのカウンターウエイトは常に直立するように装着されている。また、電動機の回転は、小歯車を経て、可動桁支点部にある大歯車に伝えられ、可動桁を昇降させる仕組みとなっている。隅田川駅跳上橋(東京都荒川区)などと同じメカニズムにより可動桁を昇降させる。 近代化への歩みと山本卯太郎山本卯太郎は、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)で橋梁技術などを学び、4年間渡米して、可動橋・閘門・起重機などの商港の荷役に必要な工事の設計、製作並びに施工法を研究[4]した。名古屋港跳上橋の竣工時、東京の芝公園に居住[注 5]し、独自に新技術[4]を開発するなど、数学を用いて可動橋の複雑な構造を多面的に解析した。大正末期から昭和初期に多数の可動橋などを設計。日本独自の発展を遂げた可動橋分野に大きな足跡を残し、港湾の近代化に寄与した。満42歳で急逝してしまったが、その遺子[注 6]は、のちに船舶を安全かつ効率的に導く水先人として活躍した。なお、山本卯太郎は自らの文献[5]で、産業の合理化や都市計画の観点を次のように述べている[注 7]。
これらを踏まえ、産業都市に具備すべき事項として、次のようなことを提言している。 さらに、前出の文献[5]で、これらの提言について、次のような具体的な理由や現状を挙げている[注 9][注 7]。
環状線の鉄道を建設[注 10]することなどにより、貨物を安全かつ迅速に目的地に運ぶことができ、スピード時代に添うとしている。また、ラッシュアワーの混雑解消についても言及している。 港湾と跳上橋1927年(昭和2年)11月発行の『土木建築工事画報』に、名古屋港跳上橋についての文献[6]があり、工業地帯または港湾付近地の跳上橋について、鈴木雅次の談話として、次のように記されている[注 11][注 12]。
諸元
脚注注釈
出典
関連項目外部リンク
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