吉野浩行
吉野 浩行(よしの ひろゆき、1939年11月2日 - 2022年4月1日[1])は、日本の実業家。自動車エンジニア。元本田技研工業代表取締役社長。福井県出身。 経歴旧満洲国出身。第二次大戦後、両親の故郷である福井県に引き揚げる。その矢先に大地震が福井を襲い、幼少時の生活は大変苦労したという。その後、福井県乾徳高校(現在の福井県立福井商業高校)を卒業すると、一浪して東京大学工学部航空学科に入学。元プリンス自動車の常務で、後に日産自動車の専務になる中川良一(中島飛行機出身)の講義を受け、航空学を学ぶ。将来は三菱重工か川崎重工に就職するつもりだったというが、学生時代に参加した軽飛行機の設計コンテストのスポンサーだったホンダを訪問したのを機に、卒業後1963年4月に本田技研工業に入社した。同期には川本信彦、入交昭一郎(大学も同期)がいた。 入社後は研究部門の本田技術研究所のガスタービン研究室に配属される。1970年にアメリカで制定されたマスキー法に代表される排ガス浄化対策がクローズアップされると、新たに社内で発足したAP(大気汚染)研究室に移り、アメリカ合衆国環境保護庁(EPA)の公聴会の傍聴や、海外メーカーとのCVCCエンジンの特許契約交渉のために、アメリカと日本を往復する日々を過ごした。 その後、本田技研工業取締役(1983年)、本田技研工業鈴鹿製作所所長(1987年)、アメリカ・オハイオ州にあるホンダ・オブ・アメリカ・マニュファクチャリング(HAM)社長(1988年)、本田技研工業取締役専務(1990年)、本田技術研究所取締役社長(1994年)を経て、1998年に本田技研工業代表取締役社長に就任した。吉野が社長に就任して3年後に登場した小型車・フィットは、30数年国内販売台数トップを維持してきたトヨタ・カローラを抜いて、日本国内での年間販売台数一位を記録した。 2003年4月23日に福井威夫に社長の座を譲り、取締役相談役となる。内閣府 総合科学技術会議議員に任命される。 2022年4月1日6時40分、死去[1]。82歳没。死没日付をもって正四位に叙された[3]。 関連項目脚注注釈出典
外部リンク
|
Portal di Ensiklopedia Dunia