中川良一
中川 良一(なかがわ りょういち、1913年(大正2年)4月27日 – 1998年(平成10年)7月30日)は、日本の航空技術者、自動車技術者。中島飛行機の設計主任として誉エンジンを手掛け、戦後はプリンス自動車を経て日産自動車の専務を務めた。 経歴東京府(現・東京都)に鉄道官僚中川正左の長男として生まれる[2]。 1936年(昭和11年)東京帝国大学工学部機械工学科を卒業後、中島飛行機に入社[2]。栄エンジンの20型以降への改良に従事し、空冷エンジンの限界と言われた1000馬力の壁を突破する[3]。1941年(昭和16年)設計主任を務めた誉エンジンの試作1号機が完成[4]。中島式低圧燃料噴射の特許を取得[4]し、誉エンジン[5]ほか中島製のエンジン全種に採用。 1945年(昭和20年) - 終戦により、連合軍総司令部(GHQ)命令により航空機産業は禁止され、12社に解体された旧中島飛行機の一つである富士精密工業(のちのプリンス自動車工業)にて、自動車技術者としての第二の人生を開始し、特に「エンジン屋」として、プリンス技術部門を統括した。 富士精密~日産自動車での経歴
社外での経歴
関連項目出典
参考文献
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