古河パビリオン
古河パビリオン(ふるかわパビリオン)は、大阪府吹田市にかつて存在した建築物。1970年に開催された日本万国博覧会(EXPO'70・大阪万博)にて、古河グループのパビリオンとして建造された。設計は清水建設[1]。入場者総数は934,671人、国内企業館中第2位[6]、全パビリオン中第10位であった[7]。 テーマは「古代の夢と現代の夢」[8]。約1200年前の天平文化のシンボルであった東大寺創建当時の七重塔を再現したもので[4]、当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめられていた[9]。 迎えられた観客は、コンピューターによって実現される便利で楽しい世界"コンピュートピア"[注 1]と名付けた未来へと導かれ、キャッシュレス・ショッピング、コンピュータ囲碁、テレビ電話といった技術が目を引いた[10]。 最上層である地上52メートルの7層目の回廊には、万国博会場全体が一望できる展望台があり[4]、特に夜間は"5億ドルの夜景"を楽しむ観客が多かった[11]。 建物相輪先端までの高さ86メートルは、現存する日本一高い[注 2]東寺(京都市)の五重塔の高さ56メートルを30メートルも凌ぐもので[4]、全パビリオン中で最も高いソ連館[注 3]に次いで高かった[8]。 七重塔は原形を忠実に再現した鉄骨造で、創建当時は木材と瓦で十数年をかけて造形された塔を、鉄骨と鉄板を主材料として約1年間で完成させた[13]。大阪地方で推定される100年間の最大瞬間風速の速度圧を想定して、100分の1サイズの模型での風洞実験などを基に、耐風・耐震設計にて建設された[14]。 屋根は、各層を4分の1ずつに分け、地上の台車とステージで仕上げ材量の取付作業を完成し、鉄骨に沿って取り付けたレールで台車ごと引き上げて、上層部から順に組み立てるという新しいリフトアップ工法[注 4]により造られた[16]。 展示七重塔の基壇部分に、展示館「コンピュートピア」がつくられた[17]。「コンピュートピア」とは、コンピューターを使って創り出す理想社会(ユートピア)」のことで、世界的にまだ実用化されていない新技術を駆使して、コンピューターの持つ未来への可能性を探求する実験劇場で、構成と内容は以下のとおり。 第1室 導入部第2室 実験劇場
第3室 コンピューター・ミュージカル・ホール
その他
ホステスのユニフォームホステスのユニフォームは、50数点の候補作から西武百貨店の藤木エミの作品「くじゃく」が選ばれた[24]。合服は紫地に金糸の孔雀の刺繍をあしらった上着とパンタロンスタイル、夏服は白地の服にミニスカートであった[24]。合服の孔雀の羽の刺繍はインパクトがあった[8](出典の画像参照[25])。 切手
閉会後相輪の撤去・移転七重塔は、数か所から譲渡について熱心な懇請があったが、当初から譲渡の相手は東大寺との話があり、かつ恒久建築物として遺すためにはさらに10数億円の資金を要することから、それらの希望はすべて白紙とせざるを得なかった[29]。また、東大寺の意向としては境内に七重塔を再現することを強く希望していたが、資金等の都合で早急の実現は困難であったため、相輪だけの寄贈の申し入れがあり、これを譲渡することが決まった[29]。 撤去された相輪はその後、東大寺大仏殿東側の敷地に移された[10]。相輪の案内板には「七重塔が大地に涌出する日を宿願とする」と記されている[10]。 七重塔の再建について東大寺庶務執事の森本公穣は「まず東塔院跡の基壇調査を進め、史跡として整備する。その後将来の東塔再建に向けて努力したい」と述べている[10]。 総括古河パビリオンは、総入場者数が国内企業館中第2位[6]、全パビリオン中第10位と[7]、万博参加とその成功は古河グループのイメージ向上に大いに役立ったが、それだけ古河グループの存在と結束の固さを改めて認識させられた。グループ意識はグループ共通の大型プロジェクトを推進する過程で高まってくるものだけに、そのプロジェクトが終了すると次第にその意識が薄れていく。そのため、第2・第3の万博を希求し実現していく必要がある。これが万博参加とその成功の意義と成果を未来に活かし育てていくために、古河グループが直面している最大課題である、と総括している。[30] 脚注注釈出典
参考文献
関連項目外部リンク |