厳島神社大鳥居厳島神社大鳥居(いつくしまじんじゃおおとりい)は、広島県廿日市市の厳島(宮島)にある厳島神社の鳥居。 「朱丹の大鳥居」とも[1]。厳島神社を象徴する建造物であり[2][3]、世界遺産「厳島神社」を構成する文化財の一つ。国の重要文化財。 神社を海上社殿として大修築した平清盛が創建したとされ、天文16年(1546年)大内義隆らが再建した時から両部鳥居になったと言われる[4]。現在のものは明治8年(1875年)再建の8代目とされていたが[4]、近年の研究により9代目であると判明した[5]。 文化財重要文化財
大鳥居は明治32年(1899年)4月5日国の重要文化財に指定、その棟札2枚が昭和38年(1963年)12月26日、大鳥居の附(つけたり)として追加指定されている[4]。また現在厳島神社宝物館が所蔵している扁額はかつて大鳥居に掲げられていたもので後奈良天皇の宸翰であり、これも明治32年国の重要文化財に指定されている[6]。 重文指定されている木造鳥居としては、高さ・大きさともに日本一[4]。奈良の春日大社・敦賀の氣比神宮の大鳥居とともに日本三大木造鳥居に数えられる[7]。また吉野金峯山寺銅鳥居・大阪四天王寺石鳥居とともに日本三大鳥居とも言われているが、これは近世以前神仏習合時代であるという[1]。 なお昭和27年(1952年)厳島全島が特別史跡及び特別名勝に指定、平成8年(1996年)厳島神社と前面の海および背後の瀰山原始林が世界遺産に登録される[8]。 構造本社正面から北西側に108間(約196.4 m)離れた海中に自立する[4]。厳島周辺含めて広島湾の干満差は最大で4 mと言われており、つまり満潮時には海に浮かぶように、干潮時には大鳥居の根元まで歩いて行ける。宮島観光協会は歩いて行ける潮位の目安は100 cm以下であるとしている[9]。 各主柱に2本づつ袖柱を持ち6本足とした両部鳥居[4]とよばれるもの。主柱と袖柱は上下2か所で差貫を差通し楔締で固定している[2][10]。全体は丹塗だが木口のみ黄土塗[4][11][10]。
材質は主柱2本がクスノキの自然木で[10]、東柱が日向国岡富村(現宮崎市西都市)産で、西柱が讃岐国和田浜(現香川県観音寺市)産のもの[13]。1950年の修理時にクスノキで根継ぎを行っており、根継ぎ材は東柱が福岡県久留米市産、西柱が佐賀県佐賀郡川上村池上(現佐賀県佐賀市)産[13]。袖柱4本はスギの自然木[10]。これも1950年の修理で根接ぎされており、根継ぎ材にはクスノキを用いている[13]。クスノキが用いられるのは、比重が重く、腐りにくく、虫に強いことから[12]。 基礎には千本杭と呼ばれる工法が用いられている[4][11]。厳島は全域が花崗岩で形成され地表付近はその風化残留土になるマサ土で覆われており[14]、ここは砂地の地盤になる[15]。そこでそれぞれの柱の下には約30本から100本の松杭が打ち込まれている[12]。1909年修繕の際に、千本杭の上に厚さ45 cmのコンクリート基礎が補強され、その上に厚さ24 cmの布石(板石)が敷き並べてある[15][2][13]。鳥居は地下埋設ではなくその布石の上に自重で立っている[11][15]。
上部の笠木・島木は箱型になっており中に小石大の玉石が詰められ重しとしている[2][11][10][12]。かつては経石が入っているとされていたが、実際は何も書かれていない丸石であった[5]。笠木・島木双方とも反り上がり、その上棟に屋根通し板を打ち付け檜皮葺としている[4][11][10]。笠木の木口北東側に「日」南西側に「月」の漆箔押しの金具が施されている[11][10][12]。陰陽道の影響とされ[12]、北東が鬼門であるため鬼門封じとして太陽[2]、その反対方向であるため月が飾られたとされる。 扁額は1875年建立する際に作られ、縦2.73 m×横1.83 m、有栖川宮熾仁親王の染筆で表側(海側)は「厳島神社」・裏側(社殿側)は「伊都岐島神社」と記されている[11][16]。その前に掲げられていた後奈良天皇の扁額は、表側が縦2.54 m×横1.48 m「厳島大明神」表記、裏側が縦2.52 m×横1.50 m「伊都岐島大明神」表記[6](明神号)。
来歴
定説(現在の定説は1958年国宝厳島神社建造物修理委員会『国宝並びに重要文化財建造物厳島神社昭和修理綜合報告書』によるもの[3]。) →「厳島神社 § 歴史」も参照
厳島神社は593年(推古天皇元年)佐伯鞍職によって建てられたとされる[8][17]。鳥居も本社創建とともに建設されたとされる[16]。 現状のような海上社殿となったのは、平清盛の援助を受け佐伯景弘によって1168年(仁安3年)建設された[8]。海上の大鳥居もこの頃に創建されたと考えられている[3]。初期の扁額は表側(海側)が小野道風・裏側(社殿側)が弘法大師の筆であったという[16]。 1286年(弘安9年)10月、大鳥居は再建された[3][17]。この鳥居は1325年(正中2年)6月25日大風で倒壊した[3][17]。 1371年(建徳2年/応安4年)4月、大鳥居は再建される[3][17]。材木は現在の佐伯区利松・廿日市市宮内などから運ばれた[17]。倒壊時期不明。 1547年(天文16年)11月18日、大内義隆を旦那として大鳥居は再建される[3][17]。この時から両部鳥居になったと言われる[4]。また義隆は大願寺尊海の要請により、後奈良天皇の宸翰の額を神社に贈る[16][17]。倒壊時期不明。 1561年(永禄4年)10月、毛利隆元を当主とする毛利氏一族によって大鳥居は再建される[3][17]。材木は現在の能美島大原・中村、仁保島、山口県岩国市から運ばれた[17]。1716年(亨保元年)自然に倒壊した[3]。 1739年(元文4年)9月、広島藩主浅野吉長によって大鳥居は再建される[3][17]。楠は現在の中区広瀬、安芸区船越、安芸郡府中町、呉市下蒲刈町から運ばれた[17]。1776年(安永5年)7月7日、落雷により倒壊する[17]。1788年(天明8年)厳島を訪れた菅茶山は『遊芸日記』の中に「華表旧と江中に在り、往年雷震焚蕩し、仍お未だ修建せず」と記している[18]。
1801年(享和元年)3月27日、大鳥居は再建される[3][17]。楠は牟婁郡和歌山県側、南区宇品、竹原市、呉市などから運ばれた[17]。1850年(嘉永3年)8月7日、大風・高潮により大鳥居は大破した[3][17]。額は南の阿多田島あたりにまで漂流した[17]。 1875年(明治8年)7月18日、小泉甚右衛門(小泉本店)らの斡旋により大鳥居は再建される(現行)[17][19]。 新説2019年から始まった修繕工事に合わせて行われた調査で新たな発見があった。
つまり、1223年から1240年の間に大鳥居が再建されたことになる[3]。 補修と次世代1875年(明治8年)創建の現在の大鳥居は、台風での破損修理以外での大規模補修は1909年(明治42年)・1925年(大正25年)・1950年(昭和25年)・1965年(昭和40年)・1994年(平成6年)に行われている[10]。いずれも柱基礎部の補強、腐朽部分の除去、根継ぎの取替修理などである[13]。1950年の根継ぎ材は貨車で運ばれたが、あるところのトンネルの入り口で立ち往生したというエピソードもある[2]。 1990年代以降、賽銭感覚で主柱に硬貨を挟む迷惑行為が続いていた[20]。
こうした損傷や老朽化対策として、2019年(令和元年)から大規模修繕工事が行われた[21]。予想以上のシロアリ被害からの修復[5]とCOVID-19禍の中で行われ、2022年12月に工事完了した。 また平成3年台風第19号で厳島神社が大きな被害を受けたことから、それを教訓として大鳥居に必要なクスノキを確保するため、宮島町有志で「宮島千年委員会」を結成、県内外でクスノキ育成に取り組んでいる[22]。この活動の一環として厳島の国有林内に、大鳥居用材のクスノキ確保を目的とした「悠久の森」、檜皮採取用のヒノキ確保を目的とした「檜皮の森」を設け、官民で島内での次世代用材の育成を続けている[2][22][23]。 観光潮の干満によって全く異なる様相を見せる。宮島観光協会によると(広島湾の)潮位では、神社が海に浮かんで見える目安は250 cm以上、大鳥居の根元まで歩いていける目安は100 cm以下としている[9]。
以下、船で近づくことができる手段を記す。
ギャラリー
脚注
参考資料
関連項目座標: 北緯34度17分50.29秒 東経132度19分5.24秒 / 北緯34.2973028度 東経132.3181222度 |