千賀千太郎
千賀 千太郎(せんが せんたろう、1882年11月24日 - 1962年2月21日)は、日本の実業家、政治家。近代岡崎の商工業者の第一人者として知られる。岡崎商工会議所の会頭を3期(通算約12年)、衆議院議員を1期務めた。長女の夫は一宮市の実業家・四代目豊島半七[1]。 概要愛知県額田郡岡崎連尺町(現・岡崎市)の呉服商の老舗大島屋に生まれる。額田郡高等小学岡崎学校(現・岡崎市立梅園小学校)を卒業後、名古屋市の簿記学校に進む。1903年(明治36年)、父の死去により年若くして家業を継いだ[3]。 家業の呉服商に木綿部を増設して千賀合名会社を設立し、三河木綿の生産に着手した。当時特産品として知られた三河木綿は零細な家内工業によるものであったため、生産量はごくわずかであった。そこで千賀は動力を利用した新しい製造方法を導入して第1工場を明大寺町に、さらに第2工場を羽根町に建てて生産を向上させ、多大の成果をもたらした。 1908年(明治41年)と1909年(明治42年)に2度、岡崎町会議員に当選している[4]。 1910年(明治43年)4月27日、発起人の一人として岡崎瓦斯を創立。初代社長に就任し、1934年(昭和9年)12月24日まで同職を務めた[5][6]。 岡崎銀行[7]、岡崎電灯、三龍社、額田銀行など地元企業の設立や経営、さらには岡崎電話局の開局にも参画し、地元の商工業の発展に寄与した[8]。1911年(明治44年)から1921年(大正10年)まで静岡県の天竜電力の社長を務めた。 →「Category:日本の実業家」を参照
1917年(大正6年)4月25日、岡崎商工会議所の会頭に就任[9]。1920年(大正9年)5月10日に行われた第14回衆議院議員総選挙に出馬し落選するも、当選者の手島鍬司が1922年(大正11年)9月23日に死去したため、同年11月10日に補欠当選。2年間衆議院議員を務める。 1925年(大正14年)1月25日に商工会議所会頭を退任したのち、1929年(昭和4年)から1933年(昭和8年)まで再び会頭を務めた。また短い期間ではあったが、敗戦後の混乱期、1947年(昭和22年)5月13日から同年11月24日まで三たび会頭を務めた。 1961年(昭和36年)7月1日、岡崎市名誉市民に推挙される[10]。1962年(昭和37年)2月21日死去。従五位勲四等を受けた[11]。79歳没。 その他の活動
脚注
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