北山村 (長野県)
北山村(きたやまむら)は長野県諏訪郡にあった村。現在の茅野市大字北山[注 1]にあたる。 地理
歴史
経済古くから農業を主とし、明治初期には米のほか雑穀(麦・大豆・アワ・ソバ)などを栽培していたが、八ヶ岳山麓の標高1,000m台を耕作地とする寒冷地のため、生産環境は厳しかった。農閑期には住民の多くが屋根葺き用の木板や燃料用の木炭を生産していた。大正時代には養蚕が主力産業となり、村内経済を支えた。一方、江戸時代からの温泉を基盤に明治中期以降、首都圏住民の避暑保養地として蓼科高原の観光地化が本格化。1927年の大霜害を発端とする経済混乱を契機に高原での別荘地経営も始まった。また第二次世界大戦前から戦後にかけて露天掘りによる褐鉄鉱の鉱山が操業した。 農林業養蚕・製糸北山村の養蚕は、麓の宮川村、玉川村、永明村に次いで明治初期までに早くも自家用の域を超え民業として成立し[1]、1890年には柳沢製糸場(16釜)が村内に起業して小規模ながら製糸も行われた。養蚕は大正期に最盛期を迎え、村内産業の主力となった。1917年現在で村内農家474戸中99%の469戸が手がけ、のちの茅野市域9か村では宮川村、玉川村に次いで多かった。同年には芹ヶ沢、翌1918年には糸萱の両養蚕組合が発足した。1920年から始まった繭価の下落を受けて各農家は収入減を補おうと収繭量の確保に努め、1923年には6年前の1.7倍近い34,054貫を生産した。 しかし1927年の長野県大霜害を皮切りに同年の金融恐慌、1929年の世界恐慌が直撃して繭価が大暴落した。繭価に連動して米など一般の農産物の価格も暴落したため、各農家は多額の負債をかかえ、県内のほかの農村部と同様に「農村恐慌」と呼ばれる経済混乱状態となった。北山村全体の収繭量は1936年には16,341貫と、ピーク時の半分以下に落ち込んだ。こののち、桑質向上のため諏訪郡養蚕部の指導で品種割合を変えた1933年の桑園改植や、蚕品種の統一、飼育法の改善の効果があらわれ、収繭量は1939年に25,153貫まで回復したが、戦中から終戦直後にかけて再び大きく衰退した。 この間、農家自身が製糸経営を行って利益確保を図る「組合製糸」として1929年12月、北山村・湖東村・豊平村および埴原田区を除く米沢村の4村の養蚕農家で保証責任北山浦生糸販売購買利用組合が設立され、北山村芹ヶ沢区に組合の製糸工場が設けられた。1933年現在の組合員数は570人。工場の規模は釜数108釜、従業員数男子15人・女子119人で、組合員からの供繭量は36,418貫、生糸製造量は3,777貫[2]。諏訪地方の8組合製糸では落合、諏訪中央、四賀に次ぐ規模であった。組合製糸工場は戦後1950年代初頭まで操業した。 戦後、1948年8月に北山村養蚕農協同組合が発足し、県内養蚕農協と製糸業界の団体交渉で繭価が決定されるようになったことから、村内養蚕は茅野町合併後の1957年にかけて再び活発に行われるようになった。 稲作稲作は、栽培限界とされる標高1,250mに近く、土地の肥沃度も低いことから特に冷害を受けやすい環境にあり、田の水口(みなくち)に澱みを作って水温を上げる「ぬるめ」を設けるなどの工夫を古くから行っていたが、明治初期の反収は1875年現在で0.83石と、のちの茅野市域9か村では湖東村に次いで低く、麓の永明村(1.65石)の半分にとどまっていた[3]。このため各農家では、自家消費を抑え現金収入となる販売用の米を少しでも確保するため、近隣他村と同様に米に大根や大根葉、干した漬け物などを混ぜた飯(ヒバ飯)や粟の混ぜ飯を常食にし、蕎麦を食べるなどしていた。 明治中期以降、入会地から刈り取った草を代かき時に敷き込んで田の肥料とする昔ながらの刈敷に加えて、金肥として昭和初期にかけてニシンのしめ粕といった動物性肥料、大豆粕などの植物性肥料、それに過リン酸、硫安などの人工肥料が普及。これに合わせ耐肥性があり冷害に強い品種が作付けされるようになり、定期的に冷害による減収に見舞われつつも、明治末期には反収が2石を超え(1909年村内反収2.11石)、おおむね一定の収量が確保されるようになった。また養蚕を兼業するために、代掻き車や手押し除草機、足踏み脱穀機などの農機具の積極的な導入により、農作業の省力化を図った。 特に低温や低水温、霜、結氷に見舞われやすい水苗代の播種期については、従来から水深を深めに維持する「深水」管理を対策としてきたが、発芽の遅れや苗の腐敗などの障害が多発するため、1930年代から篤農家などの手で考案されたさまざまな対策が試みられた。 戦後、油紙で苗代を覆い保温する「保温折衷苗代」の技術が導入され、安定して育苗することが可能になった。このため、従来標高800m程度の宮川村やちの町を中心に栽培されていた多収穫品種「農林17号」を北山村内でも作付けする農家が増え、1953年における村内の農林17号作付け割合は60%に達した。また1951年に肥料統制が廃止されたことを受け、各農家は窒素肥料を大量に施肥して収量増に励んだ。しかし、1953年7〜8月の長雨と低温で発生した大冷病害では、こうした収量優先の営農方針がいもち病の拡大と不稔につながり被害が深刻化した原因となったため、以後、冷害に強い新品種の作付けに取り組むようになった。 水利の余地がないことから明治以降、新田開発は行われなかったが、戦時体制にともなう食料増産を目的とする特例として1938年5月に湯川区の上の原および下の原の桑園、山林などを水田とすることを目的とする耕地整理組合が設立された。渋川より得られる灌漑水量や地形などの制約から規模は計画より縮小され、1940年に上の原地籍の10ha余を開田して終了した。 役畜・用畜八ヶ岳山麓部では、傾斜地の農耕に従事させるため、役畜の飼育が戦前から戦後にかけて盛んに行われ、日本でも有数の役畜耕作地帯だった。地理的に原野への放牧、飼料となる草の採取が容易で、厩堆肥を火山灰土の土壌に供給できたことが背景にある。北山村では、1949年現在で役馬が294頭、役牛が36頭[4]所有されていた。 特に役馬は2戸に1頭の割合で所有され、村内頭数は9か町村中飛び抜けて多かった。戦後の蓼科高原観光の名物となった観光馬車は、役畜による農耕作業のない夏期に、各農家がこうした馬を活用して生まれたものである。また役牛を好む農家もあり、馬に比べ粗飼料で、生育期間が短く性格が温和で管理が容易である利点があった。 このほか、戦前から自給肉用としてウサギが広く飼われ、飼育は家の子どもの仕事とされた。暮れには毛皮商人が各農家を回り、肉は年末年始のごちそうとなった。のちにはアンゴラ繊維を取るアンゴラウサギの飼育も行われた。また山羊を1、2頭飼育し、春から晩秋にかけて1日約2リットル出る乳を沸かして飲用とした。輸出用羊毛のための綿羊も飼育されていた。 開拓事業戦後、復員や引揚にともなう帰農者・新規就農者の収容と食糧増産を目的とする国の開拓事業の一環として、農林省が買収した未墾地に開拓農家が入植した。村内では1950年5月現在で蓼科高原の標高1200メートル付近の中山開拓地(中山開拓農業協同組合、1950年入植開始)に12戸、白樺湖畔の標高1500メートル付近の池の平開拓地(池の平開拓農業協同組合、1949年入植開始)に6戸がそれぞれ入植し、当初は雑穀を中心に、将来的には高原野菜と牧畜へ展開することを目指した農業を開始した。 まもなく蓼科高原、白樺湖の観光開発が本格化したため、池の平開拓地は1950年代後半に、中山開拓地は1960年代前半に、それぞれ観光開発事業者に土地を売却し開拓事業は事実上終焉した。 滝之湯堰・大河原堰江戸時代に坂本養川が開削し、現在も茅野市域の耕地灌漑に使用されている農業用灌漑水路の滝之湯堰(滝之湯汐、たきのゆせぎ・1785年開削、北山・湖東・豊平3村16区を灌漑)や大河原堰(大河原汐、おおがわらせぎ・1792年開削、玉川・宮川2村12区を灌漑)の2大堰をはじめとする大小の堰が、村内の滝ノ湯川および渋川などの各川から取水している。また戦時中から戦後にかけて、村内の音無川上流域に蓼科大池(現・白樺湖)が、小斉川上流域に蓼科湖がそれぞれ造営され、川や堰[注 2]に流下させる水の水温を上げて水稲の増産を図った。 八ヶ岳山麓の山浦地方では、江戸時代にすでに本流の水量が分水の限界に達し、堰の新設が不可能となる一方、明治以降、管理が高島藩から流域各区に移管されたため、堰の上流と下流、それに複数の堰の間で、取水割合や堰の修理、経費をめぐる争議「水争い」が多発。茅野市発足後の昭和末期に至るまで、流血や死者をともなう無数の紛争や裁判が続いた。 滝之湯堰では源流の湯川耕地(湯川区)など上流の耕地と下流耕地との間で1888年以降、小競り合いや暴行事件が繰り返し発生したため、1889年には湯川耕地を除く下流15耕地が巡査1人の派遣を上諏訪警察署に請願し、1893年まで巡査が常駐して警備を行った。また1895年には下流の湖東、豊平両村8区が、上流区である北山村各区民の水利妨害による暴力で湖東・豊平村区民が死亡した場合、8区合同で弔慰金200円を支給することなどを定めるなど、激しい紛争が続いた。 こうした対立を解消するため、1890年には流域16区の分水割合を定めた規定を全面的に見直したほか、1893年には滝之湯堰普通水利組合(1951年、滝之湯堰土地改良区に改称)を設立して1897年に各区ごとの組合費納入算定基準を改定。ともに現在に至るまでこの取り決めが存続している。 一方、滝ノ湯川と渋川で取水し、村外を灌漑域とする大河原堰は、延長20kmにおよぶため常に水量不足が問題となり、灌漑域各区間での水争いが多発していたが、源流の北山村内では、両河川で共に大河原堰より下流で取水している滝之湯堰流域各区との間で分水割合を巡る争議がたびたび発生した。
入会林野入会地は古来より、単村または北山村域外を含む複数村で原野を管理し、主に木炭の原料となる薪や、肥料やまぐさ、家萱などに用いる草の採集地として利用していた。採集方法や刈り始め・刈り終わりの時期といった入会慣行は、明治以降も1890年代までほぼ江戸時代の慣行を受け継いでいた。 北山村域では明治初期、八ヶ岳山麓の原野に目を付けた出身地不明の士族による「開農社」と称するグループが、湯川村など10村入会の御鹿山(おしかやま)[注 5]、芹ヶ沢村など7村入会の芹ヶ沢山[注 6]の払い下げと開拓を筑摩県に申し出たことから、関係村が差し止め嘆願書を県に提出してこれを阻止する事件が起きた。さらに芹ヶ沢山では明治期に、内山・外山双方に入会権を持つ芹ヶ沢区など4区と、外山のみに入会権を持つ中村区など3区が所有権を巡って対立し、大審院まで訴える争いとなった。 また一部が5村の入会地だった柏原村の柏原山[注 7]では、古来より柏原村民が炭焼や採草を行っていた八子ヶ峰北麓一帯について、後年に同地を源流とする堰を開削した際に柏原村が抗議しなかったことを根拠に自村の所属とすることに成功した佐久郡(のち北佐久郡)芦田村との論争が明治に入っても続いたが、1889年、柏原耕地が専門家2人に鑑定を依頼したところ、共に芦田村の所属であるとの結果になった。さらに外山については明治中期から、共有山ではないとする柏原区と、共有山だとする米沢村北大塩区との論争も始まった。 各入会地は1889年の町村制施行に伴う財産区制度発足に伴い、旧村単位の財産区所有に移行。北山村域では御鹿山の鹿山財産区(北山村湯川・芹ヶ沢・糸萱、湖東村金山・新井・山口・中村・上菅沢、豊平村下菅沢・福沢)、芹ヶ沢山の内山財産区(北山村芹ヶ沢・糸萱、湖東村金山・新井)と外山(とやま)財産区(内山の4区と湖東村山口、中村、上菅沢)の各共有財産区と、区単独の財産区として滝ノ湯川流域の湯川財産区、柏原山(音無川流域)の柏原財産区、渋川流域の芹ヶ沢財産区および糸萱財産区、村外である米沢村塩沢区の塩沢財産区(滝ノ湯川上流域左岸の一部)の各財産区が設けられた。 外山財産区および内山財産区所有となった芹ヶ沢山は、大正時代の1917年3月13日に7区が協定を結び、外山財産区について原野運営を共同で行う北山村湖東村一部事務組合(芹ヶ沢山一部事務組合)を設立して各区民ごとの権利割合を明文化した。 柏原財産区のうち、外山の八子ヶ峰北麓については1905年12月20日、芦田村内の池の平付近の土地100町歩余について、芦田村外三村財産組合より立木を含めて4000円余で買い取る契約を結び、残金完済となった1912年7月5日に正式に柏原区の所有となった[注 8]。また北大塩区との外山の共有権論争については、1909年にかけて大審院まで持ち込む裁判となったのち、1911年に和解契約書を取り交わして車山南麓の一部を北大塩区に分割した[注 9]。 明治中期以降、金肥の普及により採草需要が減少したことや、1897年の森林法制定で造林が推進されたことで原野の山林化が進み、新たに営林事業が行われるようになったことを受け、近隣他村では共有入会林野の分割解消が行われたところもあったが、北山村内では柏原山外山の一部を除きすべての共有財産区が維持された。 これらの財産区は、のち1960年にトヨタ自動車系列の東洋観光事業が湯川財産区および周辺の塩沢、外山、内山、鹿山財産区有地を買収または賃借して蓼科高原開発を開始したのを皮切りに、昭和末期にかけて長野県企業局(湯川財産区)、蓼科ビレッジ(外山・内山財産区)、共同開発興業(塩沢財産区)、東京不動産(鹿山財産区)、森永製菓(外山財産区)、全国共済農業協同組合連合会(湯川財産区蓼科分区)、長野県綜合開発コンサルタント(柏原財産区)、京王帝都電鉄(柏原財産区、中止)の各外部資本が、主に区有地賃借の形で別荘用地やゴルフ場といった大規模な観光開発を行う基盤となった。このほか鹿山財産区の一部区有地および柏原財産区の白樺湖一帯では、財産区自身が観光開発を行った。 観光蓼科温泉村内の蓼科高原には、江戸時代に高島藩が所有し湯請人に運営委託していた3温泉(現在の蓼科温泉郷・奥蓼科温泉郷)があり、明治以降、地元住民が県から借り受ける形で営業を行った。北山村発足直後の1879年には次の状況だった(「北山村誌」)。
交通の便が悪いため、明治末にかけて近隣各村の高齢農民の自炊湯治を主とする湯治場の状態が続き、外部からの観光客は少なかったが、小説家の伊藤左千夫や日本画家の平福百穂らが、湯川区の歌人、篠原志都児(しづこ)らの招待で親湯に滞在し、蓼科高原の様子を作品を通して紹介したことを契機に、関東地方や中部地方一帯で知られるようになった。 1903年に渋の湯が糸萱新田・芹ヶ沢財産区に、1909年に滝の湯・親湯が湯川財産区に払い下げられ、ともに競争入札で財産区民から湯請人を選び経営を請け負わせた。同時期に北山旅舎組合、北山温泉衛生組合、山浦鉱泉組合の各温泉業団体が発足し、道路整備や宿泊料の協定、防火衛生設備の充実や共同広告の実施などを進めた。また明治末期には滝の湯に近い湯川財産区有地内に小斉温泉(小斉の湯)が設けられた。 1900年代には茅野駅と各温泉を結ぶ茅野駅馬車組合の乗合馬車の運行が始まり、夏季を中心に次第に賑わうようになった。1919年には滝の湯の経営者、矢崎源治が「滝の湯自動車」を創設して小型バスを運行し、茅野駅─湯川間を2時間で結んだ。滝の湯自動車は1927年に茅野駅─滝の湯間の運行も開始し、同年には渋の湯経営の辰野茂も「渋の湯自動車」を設立。1929年には矢崎源治や茅野・上諏訪の商店主らが設立した「東諏自動車」が営業を開始し、米フォード社製バスで茅野駅─湯川─小斉の湯間で乗合バスの運行を始めた。 交通機関の発達で、蓼科温泉の湯治客は伊那・佐久地方や山梨県などに拡大した上、夏には避暑・静養を目的とする東京などからの観光客が急増。また大正期から盛んになった八ヶ岳登山も、北八ヶ岳からの縦走者の増加にともない、渋の湯などが登山基地として多く利用されるようになった。 蓼科高原の別荘開発1923年8月、上諏訪町高島小学校の校医小沢侃二らは、親湯で虚弱児童の高山保養訓練を行って良好な結果を収め、1924年には「上諏訪児童愛護会」を組織して小斉の湯で保養訓練を行ってその実績が国や医学界に注目された。文部省は1928年に小斉の湯を中心とする蓼科高原一帯を高山保養地に指定し、東京高等師範学校附属中学校など東京の各校の寮が建設されたほか、東京各地の夏季林間学校が開かれるようなった。 昭和初期にかけて、湯川財産区は「栂(つが)の木平」と呼ばれていた滝の湯近くの下栂の木地籍に、財産区直営の「高原ホテル」と温泉プール付き旅館「美遊喜館(みゆきかん)」を建設し、付近の地名を「プール平」と名付けた。さらに農村恐慌を受け、湯川財産区は1930年に別荘地経営を開始。同年5月に蓼科高原初の別荘が建設されたのを皮切りに、プール平周辺に次々と別荘が誕生した。湯川財産区有地における高原地帯の戸数は、太平洋戦争勃発直前の1941年には288戸にまで急増。これとは別に財産区との別荘建設の用地借受契約も186戸分に達した。同年の避暑・保養観光客の入り込み客数は約3万人に達し、近代型の保養観光地として、戦後の観光開発の基礎となった。 しかしこれら蓼科高原の観光産業は戦時体制化で衰退し、茅野駅と蓼科方面を結ぶバス路線は1943年10月に運休。1944年4月には小斉の湯が日本鋼管諏訪鉱業所の事務所と勤労奉仕隊員の学生宿舎として、滝の湯は東京の産婦人科医院の妊産婦避難施設として、親湯・高原ホテル・美遊喜館の3館は野比海軍病院の保養施設としていずれも所有権ごと強制的に接収された。 高原観光の復興白樺湖柏原財産区有地の池の平に1946年に完成した農業灌漑用温水ため池は、当時の県知事が命名した「蓼科大池」に代わり、柏原区民が考案した「白樺湖」の名称が用いられ、1950年11月20日には白樺湖地区観光協会が、1952年には白樺湖旅館組合がそれぞれ発足。1953年には池の名称が正式に白樺湖に改められた。 茅野駅-白樺湖間の路線バス1往復の運行が始まった1949年には観光貸馬業の営業が始まった。これは火山性土壌のため、財産区有の入会林野から大量の草肥を水田に投入するための生産・運搬手段として、村内に広く普及していた農耕馬の夏季の有効利用を狙ったものだった。 同年にはバンガローの経営も始まったほか、1951年には池の平土地改良区から湖上の管理運営権を得た代行組合によって貸しボートの営業がそれぞれ始まった。柏原財産区ではこれらの事業収益をもとに、白樺湖周辺に旅館やホテルの宿泊施設を建設するなど観光開発を推進した。さらに1954年には無線電話の回線が貸しボートのボートハウスを兼ねた池の平土地改良区事務所に開設されたほか、西白樺湖までの郵便物集配も始まった。 蓼科高原湯川財産区有地の蓼科高原では1948年5月、小型バス3台、1日4往復体制で諏訪自動車による茅野駅とのバス路線が再開され、同年6月から8月までの夏山輸送期間中に2万5000人、翌1949年の同期には5万3000人を輸送した。1949年5月には蓼科観光協会が発足し、温泉保養地から観光地への脱皮を目指して初の観光ポスターを作成。茅野駅構内に観光案内所を開設して観光宣伝事業を始めた。 また1952年には、旅館経営者の村長、篠原久造の提案で、湯川区出身者中心の中山開拓団が農業開拓に携わっていたプール平の入り口にあたる地に、温水ため池「蓼科湖」を建設。同年には中山開拓団の手で湖の南岸に23棟のバンガローが建設された。 この年には、戦前からの滝の湯・親湯・小斉の湯・高原ホテル・美遊喜(のちの三幸ホテル)・山紫閣(のちの滝の湯別館)の蓼科高原6温泉経営者が出資して蓼科観光株式会社も設立され、蓼科湖畔の観光開発を湯川区から受託。滝の湯から湖畔に引湯を行い、冬季の観光客誘致を目指して天然スケートリンクの整備に取り組んだほか、自家用バス2台を購入して無償で観光客を輸送。以後、旧来のプール平周辺と蓼科湖周辺の2地域を中心に観光開発が進んだ。 蓼科高原では、湯川財産区が1960年に滝の湯・親湯・小斉の湯や蓼科湖などを含む周辺206haを一括して東洋観光事業株式会社(トヨタ自動車販売子会社、のち松本電気鉄道子会社)に3億円で売却するまで、明治以来の10年ごとの入札請負制に基づく財産区民による営業しか認めなかったため、6温泉以外が経営する宿泊施設や飲食店が存在しない状態が続いた。 諏訪鉄山1879年5月、湯川の柳沢幸助らが蓼科高原の石安場(いしやすべ、いしやすば・石遊場[注 10])で「赤油岩」を発見し、内務省が東京農学校で分析したところ、酸化鉄などを含有していることが分かった。 日本鋼管諏訪鉱業所浅野財閥傘下の日本鋼管株式会社(現・JFEエンジニアリング)は日中戦争勃発の1937年、北山村湖東村一部事務組合が管理する外山財産区内の土地を買収して日本鋼管諏訪鉱業所とし、関東運輸株式会社(旧・浅野同族株式会社回漕部)が下請けとして露天掘りによる鉄鉱石の採掘を開始した。1944年には日本鋼管傘下の鉱業関係会社と直営鉱業所を統合して設立された日本鋼管鉱業株式会社に移管され日本鋼管鉱業諏訪鉱業所となった。 鉱区は石遊場鉱床、明治鉱床[注 11]、糸萱(いとかや)鉱床(長尾根鉱区[注 12]・金堀場=かねほりば=鉱区[注 13]・中山1〜3鉱区[注 14])のいずれも露天掘りの3鉱区。産出する鉄鉱石はリンを含む低品位(鉄含有率45%未満)の褐鉄鉱で、石遊場に鉱物中の酸化鉄を還元する簡易焼結炉20基を設け、鉄含有率を45%以上に引き上げた上で京浜地区へ送鉱した。 コンクリート製600t貯鉱槽2基を石遊場に、また同2000t貯鉱槽1基を芹ヶ沢神社(芹ヶ沢子之社)と湖東村花蒔区の間にある芹ヶ沢区花蒔下(下島)地籍の渋川南岸段丘崖に設け[6]、明治鉱床─石遊場 (2.9 km)・石遊場─花蒔 (4.6 km) に鉱石輸送用のバケットを設けた索道を設置。1942年には明治鉱床─石遊場間を3線に、石遊場─花蒔間を2線に増強した。花蒔までの鉱石搬出は約40分を要した。花蒔貯鉱場からは茅野駅までトラックで輸送し、1943年には鉄道省東京鉄道局茅野自動車区の貨物自動車路線(国鉄北山線)が開設された。 さらにトラックの輸送力が追いつかなくなったことから1943年12月、軍需省は当時鉱業所を運営していた日本鋼管に鉱石輸送用の特殊専用側線[7][注 15](通称・諏訪鉄山鉄道)を敷設させることを決めた。花蒔貯鉱場から上川沿いに米沢村、永明村を経て茅野駅に達する約10kmの路線は運輸通信省が建設を受託施工し、鉱業所が日本鋼管鉱業に移管された後の1944年末に開通。国鉄上諏訪機関区のC12形蒸気機関車が乗り入れて輸送を始めた。 しかし中央本線の輸送力が元から貧弱であったことと、戦局の悪化で既に国内の鉄道貨物輸送が混乱に陥り貨車の手配と確保が困難であったことから、京浜地区への送鉱は計画どおりに進まなかった[8]。さらに翌1945年春からは地方都市への空襲も激化したため、首都圏の精錬工場への鉱石輸送は麻痺状態に陥った[8]。軍部は本土決戦における製鉄拠点として非常措置の対象とし、「諏訪地方決戦製鉄設備急設要項」を策定。山梨県の日本電化工業日下部工場に送鉱して鉄鉱および化学肥料の生産を行う現地製鉄作業案を内示したが、まもなく終戦を迎え、諏訪鉱業所の採鉱作業は終了した[8]。 1944年8月現在の鉱山労働者は1,639人で、内訳は鉱山作業員が鉱員328人、徴用工221人、臨時工69人。建設作業員が鉱員339人、徴用工682人。徴用工は諏訪郡内で兵役に服していなかった壮年男性約700人と、朝鮮半島の朝鮮人青壮年約200人で、ともに石遊場近くの緑山温泉に収容され採鉱作業に従事した。また立命館大学学生20人、諏訪中学校4年生100人が勤労奉仕隊員として小斉の湯に収容され、中学生は二交代制で石遊場での焼結作業に従事したほか、横浜に収容されていた連合国軍(アメリカ・イギリス・オランダ)捕虜約250人が長尾根近くの収容所に移送され採鉱作業に従事していた。 終戦後、9月10日に連合国軍兵士は横浜に、朝鮮人徴用工は博多にそれぞれ引き揚げ、1947年には鉄道施設が全面撤去された。 日本鋼管は1949年1月、鉄道用地を沿線の地元町村に無償譲渡した。北山、米沢、湖東、豊平の4村は、長野県が戦後策定した「八ヶ岳総合開発計画」に基づく交通機関整備の一環として、鉄道跡地を「北山鉄道」として復活させようと同月から運輸省、農林省、長野県などに陳情を繰り返したものの実現せず、用地は1951年1月に北山、米沢、ちのの各町村道に認可され一般道路となった[9]。 諏訪鉱業開発諏訪鉱業所関東運輸による操業開始時から鉄山運営を指揮してきた日本鋼管鉱業諏訪鉱業所所長の高野太治郎は、鋼管鉱業撤退時の1948年、諏訪鉱業開発株式会社を設立し、諏訪鉱業所の施設設備を譲受して採鉱を再開した。 1950年の朝鮮戦争勃発で採鉱量が急伸し、1953年にかけて毎年年産5万t以上、月産4,500t前後の褐鉄鉱を産出し、金堀場からトラックで茅野駅に輸送し発送した。ピーク時の1951年の従業員数は約150人だった。しかし海外産鉄鉱石の供給増大で1953年以降採鉱規模を縮小し、外部資本による周辺の観光開発が本格化した1965年に操業を終了した。 諏訪鉱業開発はこのほか、岐阜県や青森県、秋田県にあった同様の低品位鉄鉱石鉱山を1950年代に譲受してそれぞれ鉱業所を設置、採鉱を行ったが、いずれも1965年までに閉山した。 電力諏訪地方では明治から大正初期にかけて諏訪電気株式会社が電力供給区域を逐次拡大していたが、北山村では同社の供給開始を待たずに1915年5月18日、篠原重蔵が地元の滝ノ湯川を利用した発電を目的に湯川水力電気株式会社を独自に設立し、湯川区と電力供給契約を締結。滝ノ湯川に直流発電機(出力6kw)を設けた発電所を建設し、同年11月に湯川区で送電を開始した[注 16]。さらに1918年には、柏原区内の音無川に発電量の大きい水路式の交流発電機(出力70kw)による第二発電所(のち諏訪電気音無川発電所、1931年廃止)を建設し、湯川電気株式会社に改称して北山村全域への送電を開始。1921年に諏訪電気に買収された。 文化北山村は郡内各村と同じく明治期より俳句、短歌に親しむ村民が多く、村内でも明治中期以降、結社や研究会が結成された。
教育北山村域では1873年の学制頒布を受けて歓喜小校(柏原村歓喜院境内)、旭映小校(湯川学校・湯川村功徳寺境内)、開宗小校(芹ヶ沢学校・芹ヶ沢村泉渋院境内)がそれぞれ開校。1885年の教育令改正を受けた連合村単位の学区設定では、米沢村北大塩学校を本校とし、湯川、芹ヶ沢、埴原田の各校は同校に合併して支校となった。 1889年の連合村制度廃止と町村制施行に伴い北大塩学校から分離し、湯川区に北山尋常小学校、芹ヶ沢区に北山尋常小学校芹ヶ沢分教場が設置された。芹ヶ沢分教場は尋常科3年までを受け持ち、分教場児童も尋常科最終学年の4年次のみ湯川の本校に通った。1900年、小学校令改正に伴い高等科を設置し北山尋常高等小学校に改称。1901年12月22日、湯川区と芹ヶ沢区の中間地点にあたる高台の上溝地籍に木造2階建ての新様式校舎を新築し本校および分教場を統合した。開校記念日(運動会)は参加する村民のために年末を避けて2か月前倒し、10月22日と決めた。当時の児童数346人。旧芹ヶ沢村の新田で湖東村へ編入された湖東村新井、金山区も当初の通学区となっていた。 高等学校中学校
小学校
宗教(1876年現在[10]) 神社
寺院交通自動車路線
鉄道路線
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事芹ヶ沢区
湯川区
柏原区
脚注注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク
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