内藤家 (信成系)

内藤家(ないとうけ)は、戦国期三河国松平氏家臣だった内藤清長の養子内藤信成を家祖とし、江戸時代には譜代大名棚倉藩主家、ついで村上藩主家[1]明治維新華族子爵家に列せられた家である[2]

歴史

家祖・内藤信成

永禄6年(1563年)の三河一向一揆との戦いの功績により、三河国中島の600石を与えられる。養父・清長の家督は家長がこれを継ぎ、養子の信成は別に家を興した(「寛政譜」新訂185頁)。信成は徳川家康の異腹の弟であるとの説があり、それゆえ松平氏庶流と考えることもできる。しかし「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」ともにこの説を採らず、清長とその実子である内藤家長によって継承された内藤家と同じく「藤原氏(秀郷流)」として扱っている[3]

信成は天正18年(1590年)に家康が三河から関東へ移封された際に伊豆国1万石をあたえられて韮山城を居所とし、さらに慶長6年(1601年)には4万石に加増されて駿府城主となる[4]。慶長8年(1603年)従五位下豊前守に叙任された後、慶長11年(1606年)采地を改められ、近江国4万石を領して長浜城主となった[4]

棚倉藩時代

慶長17年(1612年)に信成が死去し、子の内藤信正が家督を継いで近江長浜藩の藩主となる。同20年、摂津高槻藩に移封され、高槻城を居所とした。元和3年(1617年)に伏見城城代となり、同5年(1619年)秋7月には大坂城代となる。寛永3年(1626年)の信正の逝去を受けて嗣子の内藤信照が後を継ぎ、同4年に陸奥棚倉藩5万石に移封となった[5]

棚倉城に移った信照は自藩の検地を行なって[6]藩の基礎を固め、また子の内藤信良の代には領内を流れる久慈川を利用した水運計画が建議された[7]。しかし寛文12年(1672年)の大火や、数度にわたる飢饉(万治4・1661年など)などから、藩は「御家中無尽金を御借りなられ」といった状況となる[8]。棚倉藩第3代藩主・内藤弌信元禄2年(1689年)から松波勘十郎を登用して藩政の改革を目指し、農地からの収益拡大をはかった[9]。しかしその苛酷な政策のために領民からは松波の更迭を求める訴えが起こった[10]。その後勘十郎は水戸藩での一揆の責を問われて処刑されたと伝えられている[11]

宝永2年(1705年)に駿河田中藩へ移封、後に所領の一部を備中、摂津、河内に分散せられたが、享保5年(1720年越後村上藩に転じ、同10年、信良の実子・内藤信輝がその家督を継承した。

幕末の村上藩主として

幕末の第7代藩主・内藤信親(信思)は京都所司代、西丸老中を経て、嘉永4年より本丸付老中を務めた[12]元治元年(1864年信濃岩村田藩内藤家から養子として迎えられた内藤信民に家督を譲るが[13]、信民は明治元年(1868年)5月、新政府軍に抗して出兵[14]、同年7月に死没する[15]。8月11日新政府軍による攻撃を受けて村上城は落城した[16]。藤翁と号した信親は謹慎となり[17]明治2年(1869年)2月、養子・内藤信美が家督を相続、村上藩知事を経て、明治4年(1871年)の廃藩置県を迎えた。

→参考:「越後村上 内藤家譜」:「内藤信美」の名がある「系譜」「家譜抜書」および「藩翰譜書継」から成る文書で、東京堂出版『内閣文庫蔵 諸侯年表』に「家譜」として記されているものはこれであると考えられる(「序」および「村上内藤家」の頁参照)。国立公文書館所蔵の「内藤家譜」(汲古書院刊『朝野旧聞裒藁』1巻659頁の「内藤家譜」、『大日本資料』12編ノ9、1011から1015頁に採録されている「別本 内藤家譜」)とは別物である。『新潟県史 資料編8』16から21頁および『村上市史 資料編2』690から695頁に抄録されている他、同編纂所の所蔵史料目録データベースからキーワード入力で閲覧・印刷可能。請求番号4175-665。

明治以降

明治17年(1884年)に制定された華族令により華族が五爵制になると、村上内藤家は旧小藩知事[注釈 1]として子爵家となった[18]

内藤家歴代当主肖像画

「内藤家歴代当主肖像画」は、村上城主内藤家の家祖信成から10代当主信敦までの歴代当主を描いた10枚の肖像画である。内藤家を祀る新潟県村上市の藤基神社の御神宝として秘匿されてきたが、その重要性から令和2年(2020年)7月に初めて一般公開された。絵画として優品で、かつ10点もの肖像画が長期間にわたり離散せず現存している例は非常に珍しいものとして、村上市文化財に指定された。

歴代肖像画のうち8代から10代の3枚は過去に絵が剥がされたと伝えられ、白紙の状態で保管されていたが、8代、9代の2枚の白紙を剥がしたところ、下から新たな肖像画が発見され大きな話題となった[19]。令和2年に残るすべてについて東京文化財研究所が光学調査を実施したところ、10代の白紙の下と7代の絵の下にもさらに肖像画が隠されていることが判明した[20]

系図

脚注

注釈

  1. ^ 旧村上藩は現米2万9480石(表高5万90石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[2]

出典

  1. ^ 新田完三 1984, p. 831-834.
  2. ^ a b 浅見雅男 1994, p. 151.
  3. ^ 「藩翰譜」はその按文で広忠庶子説を紹介しているが、信成を家長の養子とする説(「寛永諸家系図伝」はこれを採る)への批判が述べられるにとどまり、広忠庶子説について「従うべし」とはしていない(『新編 藩翰譜』2巻101頁の按文)。
  4. ^ a b 新田完三 1984, p. 831.
  5. ^ このうち信良の異母弟・内藤信全常陸国多賀郡5,000石を与えられて分家している。
  6. ^ 『棚倉町史』1巻339頁および344より345頁。正保4年(1647年)の検地帳が残されていることから。
  7. ^ 『棚倉町史』1巻。348より349頁。明暦4年(1658年)井上市右衛門らによる17ヶ条の献言書があったとしている。
  8. ^ 『棚倉町史』1巻。寛文の大火に付き354から355頁に採録の「沙汰治帳」、飢饉につき360頁の記述を参照した。引用文は同頁にある「沙汰治帳」の文言に拠る。
  9. ^ 『福島県史』8巻953より957頁所載、松波勘十郎の名がある「元禄14年6月村改めにつき布令」。松波の登用を元禄2年とするのは『棚倉町史』1巻361頁である。同年に彼が藩に提出した「覚書」があることからの推定。
  10. ^ 「松波殿御支配之儀ハ御赦免を奉願候」とする『古殿町史』640頁所収の「元禄15年南郷竹貫63ヶ村訴願」。賦役を赦免するかわりに「借替」や「免合」を認めずに賦課を行うこと、また法事や酒食を制限・禁止することへの不満が述べられている。
  11. ^ 『棚倉町史』1巻375頁。「勘十郎百姓に下され鋸引にいたし」とする「奥州岩代百姓一揆聞覚」の所伝が掲載されている。
  12. ^ 『柳営補任』1巻15頁。
  13. ^ 『続徳川実紀』4篇643頁。
  14. ^ 『復古記』12冊79頁「若松記」によるとしているがその内容は収録されていない。一小隊を「地蔵堂」(現・燕市地蔵堂)に派遣した、というもの。
  15. ^ 『村上市史 通史編3』は彼の死を「自殺」とし(22から24頁)、また『同 資料編6』近現代行政資料編上巻は、新政府軍への対応を巡り「激しい議論が闘わされた」と推測した上で、信民の自決を両派の対立相克に苦悶した結果とみている(59頁)。しかし藩論が二分されていたことの典拠が不明であり、また彼の自害についてこれを直接に記す当時の記録も存在しない。ただ東京堂出版『幕末明治日誌集成』2巻「北征日誌」第13所載の鈴木乙五郎の嘆願文書に「去月十七日致自傷候様子ニ相聞」とあり(94頁)、藩士の間でそのように認識されていたことがうかがえる。東大史料編纂所所蔵「越後村上 内藤家譜」はその死因を「病死」と記している。
    →また信民の享年および没年月日に関しては「越後村上 内藤家譜」が20歳で明治元年7月16日としているのに対し、これを基に編纂されたと考えられる『諸侯年表』および昭和6年の村上本町教育会編・刊『村上郷土史』では享年19、7月11日卒と記されている。前者は単なる誤記とも考えられるが、後者は女性の名や戒名が記されており、信民の墓所である村上市・光徳寺の過去帳に拠ったとも考えられる。
  16. ^ 『復古記』14冊44頁。「酒井忠宝家記」に曰くとして、鳥居三十郎ら将兵が城に火をかけ、庄内に逃れたとしている。『新潟県史 通史編6』74、75頁の記述はこれに拠るものであろう。なお雄山閣出版『藩史大辞典』3巻16頁は、鳥居らの降伏を9月27日としているが、『復古記』12冊287頁の「戊辰事情概旨節略」からの記事として9月23日に庄内藩主・酒井忠篤の降伏文書を受け、26日には鳥居らが新政府軍に同行していたことが記されている。
  17. ^ 『復古記』7冊757より759頁。信親の謹慎を記して家督の継承を訴える村上藩士からの書状が収録されている。また山口重松『我が郷土村上を語る』(村上郷土研究グループ、1978年。昭和11年刊行本の復刻)には信親自身による「懇願書」が採録されている(209より210頁)。しかしどのような経緯でこの文書を入手し得たのかが不明である。
  18. ^ 小田部雄次 2006, p. 334.
  19. ^ 藤基神社(新潟県村上市)で江戸時代に描かれた村上藩主・内藤家の肖像画2枚が発見”. 新潟経済新聞. 2020年7月20日閲覧。
  20. ^ 村上藩主「肖像画」の発見”. 藤基神社. 2020年10月30日閲覧。
  21. ^ 1925年3月5日に春原を信利に改名。『官報』第3761号、大正14年3月9日。

参考文献

  • 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366 
  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 

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