内藤信庸
内藤 信庸(ないとう のぶつね)は、江戸時代の旗本。越後村上藩内藤家の分家当主・内藤信朋の養嗣子。 生涯正徳4年(1714年)、村上藩主内藤弌信の七男として生まれる。元文3年(1738年)12月7日、8代将軍徳川吉宗に披露され、延享4年(1747年)5月3日、養父・信朋の遺領を継いだ。宝暦6年(1756年)2月28日、西の丸弓頭となり、同年12月18日、布衣の着用を許される。同11年(1761年)西の丸小姓組番頭を経て、本丸付となり、12月18日に従五位下越前守に叙任された。 明和2年(1765年)8月15日より書院番頭に転じ、安永4年(1775年)に職を辞した。 天明元年(1781年)12月11日、江戸において死去。享年68。法名:正義。葬地は三田魚籃寺とされている(「寛政譜」新訂13巻205頁)。養嗣子の信智は明和4年(1767年)5月26日に死去したため、家督は信智の子信義が継いだ。娘は久世広景に嫁いでおり、幕末の旗本筒井政憲は外孫に当たる。 出典
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