内藤信旭

 
内藤 信旭
時代 江戸時代中期
生誕 寛保4年2月13日1744年3月26日[1]
死没 宝暦12年5月28日1762年7月19日
別名 貞一郎、三左衛門
戒名 隆徳院栄誉俊厳了義
墓所 新潟県村上市 光徳寺
官位 従五位下豊前
幕府 江戸幕府
越後村上藩
氏族 内藤家 (信成系)
父母 父:内藤信興、母:奥平昌成の娘
兄弟 信旭信凭頼尚
正室:毛利匡敬の娘
養子:信凭
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内藤 信旭(ないとう のぶあきら)は、江戸時代中期の大名越後国村上藩4代藩主。官位従五位下豊前守

経歴

寛保4年(1744年)2月13日、3代藩主・内藤信興の長男として江戸にて誕生。宝暦8年(1758年)12月1日、15歳で徳川家重御目見し、12月18日に従五位下・豊前守となる。同11年(1761年)5月25日、父・信興の隠居によって家督を継ぎ、8月11日村上に入部する。

翌12年(1762年)5月28日、参勤交代の途中、会津坂下で病死(6月17日、村上において死去とも)。享年19。嗣子がなかったため、異母弟・信凭がその跡を継いだ。

葬地は新潟県村上市の光徳寺(以上「寛政重修諸家譜」新訂13巻202および203頁の記述に拠る)。現在の墓所も同じである。

系譜

父母

正室

養子

特記事項

  • 忌日を6月17日とするのは「寛政譜」の他「藩翰譜続編」(『新編 藩翰譜』2巻129頁)および「越後村上 内藤家譜」である。『村上郷土史』は5月28日と記す(116および80頁系図)。
  • 同じく『村上市史 通史編2』は5月28日死亡説をとり、(1)参勤交代の途上に会津坂下宿で病死した (2)相続願の受理まで家臣が死を隠した (3)これを「たぐい稀なる知謀の侍也」と「諸人舌を巻いて咄し」と記す「坂下宿の記録」があった、としている(362から363頁)。
  • 『村上郷土史』は法名を「英誉俊厳了義」と記している(80頁)。

脚注

  1. ^ 内藤信旭』 - コトバンク

出典

先代
7代:内藤信興
内藤家(信成系)歴代当主
8代
次代
9代:内藤信凭