内藤信広
内藤 信広(ないとう のぶひろ)は、江戸時代初期の旗本。一時は大名だった。越後国村上藩内藤家の分家初代。内藤信成の次男。 生涯慶長16年(1611年)6月、徳川秀忠に召抱えられて小姓となる。同19年(1614年)御徒頭となり、大坂冬の陣に供奉、元和元年(1615年)上野国に采地1,000石を与えられる。同年5月7日、大坂夏の陣において戦功があり、のち小姓組組頭となる。 元和3年(1617年)1月14日、従五位下市正に叙任、のち寛永3年(1626年)書院組頭となる。同9年(1632年)4月8日大番頭に進み、また石見守に改めた。 寛永10年(1633年)、安房国および上総国において加増4000石を受ける。慶安元年(1648年)6月26日には大坂定番となり、また加増されて都合1万5000石を領した。しかし家臣の一人がキリシタンとして処刑されると、その責を問われて罷免され、7000石を減封された。 慶安2年(1649年)3月15日、江戸において死去した。享年58。法名は浄閑。家督を長男の信光が継いだ。 葬地は神田無量院とされ、のちこの寺が駒込に移転したという(「寛政譜」新訂13巻206頁)。 参考文献
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