内藤正縄
内藤 正縄(ないとう まさつな)は、江戸時代後期の大名。信濃岩村田藩の第6代藩主。岩村田藩内藤家7代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の実弟である。 寛政7年(1795年)、肥前唐津藩の第3代藩主・水野忠光の三男として生まれる。享和3年(1803年)閏1月18日、前年に死去した岩村田藩主・内藤正国の甥にあたることから養子に迎えられ、9歳で家督を継いだ。文化6年(1809年)10月1日、将軍・徳川家斉に拝謁する。同年12月28日、従五位下下総守に叙任する。文化9年6月13日、初入国の許可を得る。 文化7年4月、日光祭礼奉行を命じられる。文化11年2月、大坂加番を命じられる。文政8年(1825年)12月、大番頭に就任する。天保9年(1838年)9月24日、伏見奉行に就任した。在任中、京都で逮捕された梅田雲浜を取り調べるなど、井伊直弼による安政の大獄を支えた。その功績により安政5年(1858年)7月11日には城主格に昇進した。安政6年8月11日、解任されて、雁の間詰めとなる。 万延元年(1860年)2月25日に死去した。享年66。長男の正義は安政元年(1854年)に早世しているため、正義の長男で嫡孫の正誠が跡を継いだ。 なお、正縄の手植の梅の古樹が岩村田にあり、正縄公御手植の「豊後梅」と呼ばれている[1]。 系譜父母 正室
子女 養子
脚注
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