跡部良弼

 
跡部良弼
時代 江戸時代後期 - 末期
生誕 寛政11年10月21日1799年11月18日
死没 明治元年12月20日1869年2月1日
別名 季十郎、大膳(通称
墓所 東京都港区 玉窓寺
官位 従五位下山城守、信濃守、能登守、甲斐守、伊賀守、遠江守
幕府 江戸幕府 西丸小姓組二番組組衆、中奥番、使番、火事場見廻役、駿府町奉行堺奉行大坂東町奉行大目付勘定奉行道中奉行江戸南町奉行小姓組番頭留守居講武所総裁、留守居格大目付、海防掛、留守居格江戸北町奉行、留守居格清水卿支配、留守居、御側御用取次側衆、留守居上席、側衆格留守居、若年寄
氏族 水野氏跡部氏
父母 父:水野忠光、養父:跡部良貞
兄弟 芳丸、水野忠邦内藤正縄堀直哉跡部良弼駒木根政任水野忠勧長谷川正道
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跡部 良弼(あとべ よしすけ)は、江戸時代後期(幕末)の旗本幕臣肥前唐津藩水野忠光の六男で、老中水野忠邦の実弟[1]通称は季十郎・大膳。官位は従五位下山城守。信濃守、能登守、甲斐守、伊賀守、遠江守に遷任した。

生涯

旗本・跡部家に養子入りしたが、良弼は実兄の忠邦の威光を背景に傲岸で、周辺と諍いを起こすことが少なくなかった。累進して駿府の両町奉行を経て大坂東町奉行となった。在任中の大坂では米価が暴騰し、多数の餓死者が出た。

従来は、良弼はこれに対してなんらの打開策を立てないばかりか、豪商らによる米の買い占めを傍観し、また、町奉行所の元与力陽明学大塩平八郎の提案した救民計画を無視し、江戸に米の廻送を命じたため、米価はますます高騰したと言われ、これが原因で、天保8年(1837年)に大塩平八郎の乱の原因になったと言われてきた。

しかし実際には、天保4年(1833年)から天保8年にかけて、大坂町奉行は積極的な米価対策を実施し、堂島米取引不正禁止令、堂島米相場抑制令、入津米増加令、他所他国売禁止令、市中小売米価引き下げ令、官米払下げと施行の実施、民間施行の実施など、取ることができる対策のほとんどを取り、その結果、大坂市中の飯米維持政策はかなりの程度実効性をもったといわれている。しかしそれでも限界があり、米不足は深刻化し、その結果大塩の乱が起こった。一方、江戸への米の回送は、米不足に苦しむ江戸の住民の食料の確保のために行ったという見方もある。しかし大坂の米不足の深刻化に伴い、良弼の態度は変わり、天保7年(1836年)11月29日に出た江戸廻米推進令に対しては、大坂の米が大量に流出しないようにする措置を取り、また江戸町奉行の命令で大坂に米を買い付けに来た江戸商人に対しては、協力拒否の姿勢を取っている[2]

大塩の乱の鎮圧では、良弼も手兵を率いて出馬したが、計略を事前に察知していたにもかかわらず、大塩方が発した大砲の音に驚いて落馬したという醜態が記録されている。乱は鎮圧されたが、大坂の町の5分の1が破壊される被害を出す惨事となった。

大塩の乱について責任を問われることはなく、その後は大目付を経て勘定奉行に栄進した。勘定奉行在任中の天保13年(1842年)、翌年に予定された12代将軍徳川家慶日光東照宮謝参準備のため日光に赴く途中、下総古河の宿場本陣に宿を取ったが、幕府の威光を盾にして、参勤交代で既に同宿場の本陣に入っていた陸奥仙台藩伊達慶邦を強制的に退去させたため、後日伊達侯から幕府に強硬な抗議がなされたという逸話が残る。

天保の改革が失敗に終わり、兄である忠邦が失脚した後も政治的命脈を保ち続けた。一説によると、忠邦が重用した鳥居耀蔵とそりが合わず、常々鳥居と敵対していたために連座しての失脚を免れたとも言われている。以後は江戸南町奉行小姓組番頭留守居講武所総裁、江戸北町奉行を歴任した。幕末の慶応4年(1868年)に若年寄に就任するもわずか7日で免職となり、翌明治元年12月20日(1869年2月1日)に死去した。享年70。

年譜(江戸幕府役職履歴)

演じた人物

脚注

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 42頁。
  2. ^ 平川新『全集 日本の歴史 第12巻 開国への道』(小学館、2008年)