堀直之
堀 直之(ほり なおゆき、天正13年(1585年) - 寛永19年7月10日(1642年8月5日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本、江戸幕府北町奉行、寺社奉行。椎谷堀家初代。 奥田直政(堀直政)の子。兄に直清、直寄、弟に直重。妻は柴田勝全[1]の娘。子に直景(長男)、直広(次男)、柴田直好(4男)、直氏(5男)、娘(三浦正次正室)、娘(堀直升正室)。字は佐太郎、主計助、三右衛門。官位は従五位下、式部少輔。 生涯秀忠に仕え、大坂の陣へ天正13年(1585年)、堀氏家臣・奥田直政(後の堀直政)の子として越前北ノ庄に生まれる。母は宮川秀定の娘で、後の自性院。 慶長3年(1598年)、父と共に越後国に入り、主君・堀秀治より8000石を給される。慶長15年(1610年)に主君の堀氏が除封されると一時、信濃飯山藩主であった兄の直寄のもとへ身を寄せ、翌年、江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に拝謁し登用され、書院番士となり、食禄300俵を賜る。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では兄・直寄に属して出陣、先鋒を務めた。 翌年の大坂夏の陣では再び兄の先鋒をつとめ、道明寺の戦いで大坂方の薄田兼相を討ち取る。後に兼相の母より、この時の敵将が薄田兼相であると伝えられ、懇ろに菩提を弔ったといわれる。 続く天王寺の戦いでは大坂方の真田信繁、毛利勝永らの軍に押され、直之を殿軍として一旦後退するも、殿軍の直之の奮戦により盛り返した。直之は敵中に深く入り込み、手傷を負い疲労も極限に達し、自刃をも覚悟したが、ここで敵の一角が崩れ家臣達が突入してきた。直之は「われ鬼籍をまぬがれたり」と叫び、さらに奮戦した、と伝わる。この軍功により、武蔵八幡山に1000石を賜り、使番となった。 武蔵八幡山から椎谷へ元和2年(1616年)、越後椎谷に5000石の加増転封となる。さらに新田500石を加え、都合5500石となる(『寛政重修諸家譜』には沼垂郡に5000石賜ったとある。沼垂町は新発田藩の領内であるし、刈羽郡の椎谷からは遠いので、蒲原平野のどこかに飛び地で領土があったとも推定される)。 椎谷では、馬市が領主堀直之が入封した元和2年(1616年)から始まった。 超願寺陣屋、江戸町奉行元和6年(1620年)、大坂城修復の監使を命ぜられる。寛永3年(1626年)、3代将軍・徳川家光が上洛する際、御供をする。寛永4年(1627年)4月、佐渡島の監使を務める。12月、従五位下式部少輔に叙任。 寛永8年(1631年)、江戸町奉行となった。翌年(1632年)には加賀爪忠澄も江戸町奉行に任じられた。当時の江戸町奉行は2人制の月番交代制[2]であり、直之は呉服橋に役宅を賜り北町奉行と呼ばれ、加賀爪忠澄は常盤橋に役宅を賜り南町奉行と呼ばれた。以降、江戸町奉行の両者はそれぞれ北町奉行、南町奉行と呼ばれるようになった。すなわち名称は管轄の地域を指すのでなく、直之と加賀爪に与えられた役宅それぞれの位置、呉服橋と常盤橋の位置関係が由来である。 寛永10年(1633年)、上総国夷隅、長柄、市原、埴生四郡のうち4000石を加増され、9500石となり、夷隅郡苅谷に陣屋を設ける。同12年、小田原藩主稲葉正勝が病のため、代わって直之が小田原城の普請奉行を任じられる。正勝は春日局の長男で、直之の妻は春日局の姪だったため、縁戚としてこの仕事が回って来たものと思われる。寛永15年(1638年)、北町奉行を辞任。同17年(1640年)、寺社奉行に就任。 同年10月18日、母・自性院が76歳で死去。寺社奉行の母ということで葬儀が盛大に行われたという。駒込養源寺に埋葬される。養源寺は元来は稲葉家の菩提寺として稲葉正勝が創建したが、直之も縁者であるため私財を寄進し、堀家の菩提寺ともした。他にも堀江家、松平家などの墓所があり、後世の人は駒込の大名寺と呼んだという。 寛永19年(1642年)、58歳で死去。本光院殿圓成宗覚居士と追号を受け、養源寺に埋葬された。 なお、直之の代は禄高9500石で大名ではないが、後の代になり蒲原の所領を幕府領として上知し、上総の飛び地を整理し、椎谷藩を立藩させる処置がおこなわれ、大名家の椎谷堀家が誕生する。 以後廃藩置県に至るまで、直央・直恒・直旧・直喜・直著・直宣・著朝・直起・直温・直哉・之敏・之美と続き、椎谷藩を統治した。 伝承椎谷の地、刈羽郡妙法寺村には、旧越後国主の上杉氏の家臣・斎藤朝信の寄進による超願寺があり、織田氏の三将(?)の一人と謳われ、父・直政の友人であった加賀小松城主戸次左近将監[3]が出家して法順と号し、超願寺の住職となっていた。直之は2代目の慶順と親交があり、大坂の役の前にこの寺を訪れ「軍功を挙げ、かならず応分の寄進をいたす」旨を約して出陣していた。椎谷5000石を領した後に寺領の安堵をした。3代目直良の時に陣屋が移されるまで、超願寺が陣屋となっていた。 参考文献
脚注 |