伎楽伎楽(ぎがく)は、日本の伝統演劇のひとつである。日本書紀によれば、推古天皇20年(612年)、推古天皇の時代に百済人味摩之(みまし)によって伎楽が伝えられた。中国南部の呉で学んだという(『教訓抄』)。奈良時代の大仏開眼供養(天平勝宝4年(752年))でも上演され、正倉院には、その時使用された伎楽面と衣装が残され、他には法隆寺献納宝物として面が残る。伎楽面は、後の能楽などに比べずっと大型で、頭からスッポリと後頭部含めて被る形式である。行道という一種のパレードと、滑稽味をおびた無言劇と舞と楽奏で構成され、飛鳥時代から奈良時代に寺院の法会でさかんに上演されたが、鎌倉時代に至って次第に衰退し絶えた。 伎楽の歴史伎楽は「呉楽(くれがく)」「呉楽儛(くれのうたまい)」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった[1]。そのルーツについては、チベット、西域・新疆ウイグル自治区、ブータン、インド、ペルシャ、ギリシャなどから伝わり混合したとの説がある[2]。 「伎楽」の文字が日本の文献に初めて登場するのは、『日本書紀』欽明天皇(在位 540年~572年)の項においてである。呉国の国王の血をひく和薬使主(やまとくすしのおみ)が、仏典や仏像とともに「伎楽調度一具」を献上したという記述がある。ただしこのとき、実際の演技として伎楽が上演されたかどうかは不明である。『日本書紀』の推古天皇20年(612年)5月、百済人味摩之(みまし)が伎楽儛を伝え、奈良の桜井に少年を集めて教習したという記事が、実際に日本で伎楽が行われた記録としては最古である。 聖徳太子の仏教布教のための奨励などによってその後に伎楽は寺院楽として定着していった。(『聖徳太子伝暦』)[1][3]。橘寺、太秦寺、四天王寺などの各大寺教習させ伎楽の面装具一式を寄進した[1]。さらに伎楽の教習者には課役免除の措置がとられた[4]。『延喜式』によると法隆寺をはじめ、東大寺、大安寺、西大寺、秋篠寺に伎楽を上演する一団がおかれていた[5]。4月8日の仏生会、7月15日の伎楽会は、奈良時代に仏教行事として定着するが、この際には伎楽上演があった。また天武天皇14年(685年)には、筑紫( 現・福岡県太宰府市)の観世音寺で伎楽が外国の賓客を供応するため催された。このように伎楽は仏教行事以外の場でも上演されている[1]。 東大寺の大仏開眼供養(西暦752年/天平勝宝4年)の時には他の諸芸能とともに大規模に上演された。神護景雲3(769)年5月9日造伎楽司が設立され、造伎楽長官が任命されている[6]。 大宝律令に定められた雅楽寮には伎楽師もおかれ、国家の保護がなされた[7]。しかし一方で、国家保護のもとで伎楽の演者は居住地が制限され、大和国城下郡杜屋村に楽戸郷として定められる制約も課せられた[5]。 伎楽面は大型で後頭部まで覆う。材質は楠製、桐製、乾漆製の3種で製作の工夫で徐々に軽量化されていった。地方に伎楽面を貸し出した記録も残り、伎楽は広く地方にも伝播していった形跡がみられる[8]。伎楽は行道が除かれ、武徳楽の舞が省略され、腰鼓が途絶えるなど様々に形を変えていった[9]。 だが、奈良時代にさかんに行われていた伎楽も、平安時代を経て鎌倉時代になると次第に上演されなくなった(『教訓抄』)[3]。それは、寺院歌舞としては舞楽が盛んになった、内容に懸想模様など卑俗な部分が多かった、寺院楽として伝わったので内容も登場人物も力士・金剛など仏教的で、その後に習合した神道に触れない、などの理由と推定されている[10]。 伎楽の影響波羅門の「ムツキアラヒ(褌を洗う所作)」は、後の猿楽に「妙高尼之襁褓乞」として受け継がれ(『新猿楽記』)、伎楽の喜劇形式と滑稽な演技が猿楽に影響している[11]。 舞楽とは雅楽器の演奏に合わせて踊るもので、今は雅楽の曲目の1種類だが、その起源は伎楽での舞の部分が雅楽と合流してできた(『教訓抄』)[12]。 伎楽の楽曲部分が主に笛の曲として雅楽に取り入れられた[9]。 伎楽そのものは鎌倉期に衰退したが、伎楽が後世の芸能に及ぼした影響は大きい。現在単独の形だが、各地の獅子舞の形式と祭礼に魔を祓う登場の仕方などのルーツも伎楽にある[13]。治道が猿田彦・天狗・王鼻などに変化して祭礼の露払い役で残る[14]。また、各地の寺院で行われる「お練供養」や菩薩来迎会にその痕跡をとどめている[13]。 伎楽の復元昭和55年(1980年)、東大寺大仏殿昭和大修理落慶法要を飾る一大プロジェクトとして、その一部が復元された。復元作業にあたっては、現存する資料を元に、宮内庁楽部楽師・芝祐靖(復曲)、NHKプロデューサー・堀田謹吾(企画)、元宮内庁楽部楽長であり小野雅楽会会長であった東儀和太郎(振り付け)、東京芸術大学教授・小泉文夫(監修)、並びに、大阪芸術大学教授・吉岡常雄(装束制作)らの尽力によって実現。雅楽部総監督は佐藤浩司天理大学教授、演技は天理大学雅楽部が担当した。以降、天理大学雅楽部は『教訓抄』記載の伎楽の復元試作を続け、復曲は引き続き芝祐靖が当たった。「行道乱声」「獅子・曲子」「呉公・呉女」「迦楼羅」「崑崙」「婆羅門」「金剛・力士」「太孤」「酔胡」の復曲により、1990年には文献に記載された伎楽曲が残らず揃い、雅楽部も演奏できるようになる。 なお、同部は、平成4年(1992年)からは薬師寺において、創作伎楽『三蔵法師』にも取り組んでいる[15][16]。
1991年五世野村万之丞は、狂言師として仮面劇の歴史を追求する末に伎楽と出会い、新たな形での仮面劇での復元を構想し、アジア各国を調査し、各国俳優やダンサー、音楽家と対話と実践を重ね、2001年に「真伎楽」と名付けた形で復興させた。2001年10月16日東京都庁前広場で初演、天の計らいという奈良県明日香石舞台古墳前での2回目公演を実施した[17]。以降、福岡県太宰府公演を経て韓国へ渡り、扶余とソウルで上演された。その後、2004年万之丞の急逝後も遺志であった中国公演を2007年に実施して、その後も活動中である[18]。 復元した伎楽面を被った演者たちの感想では、能狂言の面や日本に多い顔の前面に紐で固定する形式の面と違い、頭部に被るので、すっぽりと包まれた母親のお腹にいるような感覚を覚え、一気に別の人物に憑依するという[19]。 伎楽の上演様態奈良時代に仏教寺院で行われていた伎楽は、『教訓抄』とその研究から次のような上演様態をもつとされている[20]。
これは読経をともない仏を賛美するものと考えられる。このパレードは「治道(ちどう)」とよばれる鼻の高い天狗のような仮面をつけた者が先導する。次に笛、鼓などの楽器で構成される前奏の楽隊、音声という声楽のパート、さらに獅子、踊物、そして後奏の楽隊、帽冠(ほうこ)とよばれる僧がつきしたがう。一行が、しつらえられた演技の場に到着する
これは演技の場を踏み鎮める役割をはたす。人の児の姿の獅子児が、獰猛な親の獅子をなだめる。 1・2は序章で、次から各登場人物によって劇的展開をもつ演技がはじまる。この演技はすべて仮面をつけておこなわれ、無言のパントマイムと舞で構成される。また管楽器や打楽器による伴奏がつく。 呉公は扇を持ち幕口に向かって笛を吹く様子をする。盤涉調を伴奏に舞う。金剛が続いて登場し舞う。続いて、霊鳥である迦楼羅が蛇を食べてテンポ速く舞う。
崑崙はマラカタとよばれる男性器を誇張したつくりものを扇でたたいて呉女に言い寄り、力士はそのマラカタに縄をかけて引っ張ったり、たたいたりする。色欲を戒める意味をもたせて上演されたが、その所作は見物の爆笑を誘ったと想像される。
洗う姿が滑稽(『教訓抄』)。
老い衰えた孤父が、2人の子に介添えされ腰を押されつつ登場。仏前に両脇を子どもに介護されて五体投地し礼拝する大孤の所作は、直接的に仏教的な内容を教え説いている[1]。 1999年には、チベット仏教では五体投地が行われ、西部のシャンシュン地区に残る芸能で、仮面を使う老父と子供の五体投地劇が残っていた[21]。
ハラメキは鳴動で大きな音を立てて動く演技[22]。西域の胡王が8人の酔胡従者を従え、自分の権威を示そうとするが、酔っている故にその酔態の様が狂態となってしまい、人びとを爆笑させ、権威をなくしてしまう王を舞で描いている。[23]緩やかな批判精神がある。その一方彼らは稀人で様々な交易品で希少な品物を運んでくれる[24]。 伎楽で使用される仮面次の14種類ある[25]。
真伎楽の脚色脚色するとともに、楽劇の常態から明確に3章に分けた。
脚注注釈出典
参考文献
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