キジル石窟
キジル石窟(キジルせっくつ、中国語:克孜爾石窟、Kèzīĕr shíkū、ウイグル語:Qizil Ming Öy)は、中華人民共和国新疆ウイグル(維吾爾)自治区アクス(阿克蘇)地区バイ(拝城)県キジル(克孜爾)郷にある仏教石窟寺院の遺跡群。キジル千仏洞、キジル石窟寺院とも呼ばれ、新疆では最大の石窟である。 1961年公布の中華人民共和国全国重点文物保護単位の一つに指定されている。2014年には「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録された。 名称キジル石窟の「キジル(Qizil)」とは、ウイグル語で「赤い」という意味であり、この辺一帯の赤い岩肌にちなんだものと思われる[1]。そのため、中国では克孜爾石窟(克孜爾千仏洞)の他に赫色爾石窟 (Hèsèĕrshíkū) とも呼ばれている。 地理行政的には中華人民共和国・新疆ウイグル(維吾爾)自治区・アクス(阿克蘇)地区・バイ(拝城)県・キジル(克孜爾)郷にあり、クチャ(庫車)市の西方70キロメートル、バイ県城の東方50キロメートルに位置する。地形的にはムザルト川の北岸にあるミンウイ・タグ(千仏洞山)の岩壁にあり、近くにはポプラや柏楊などの樹木が繁り、畑や果樹園も造られている。一方の南岸には赤いチャール・タグ(荒涼の山)の山々が連なる。 外観石窟のある岩山はかなりの凹凸があり、高さは5、60メートルもある。その中腹から下方にかけて石窟が掘られている。崖の中央には小さな渓谷が崖面と直角にあってその奥にも石窟が掘られている。 建築方法や壁画はその多くがインドやペルシア風であり、ル・コックが言うようにヨーロッパ風にも見える[2]。 歴史キジル石窟が造られたのが3世紀の中頃から8世紀の間とされており、その時代にこの地を支配していたのは古代仏教王国の亀茲(きゅうし)国であった。亀茲国は早い時期から仏教を信奉しており、4世紀中頃の『出三蔵記集』には「時に亀茲の僧衆一万余人」、「寺が甚だ多く、修飾至麗たり。王宮は立仏の形像を彫鏤し、寺と異なるはなし」などと記録されている。 亀茲国にいつごろ仏教が伝わったのかは明らかでないが、中国側の史料によれば、すでに3世紀末から4世紀初めにかけて相当数の亀茲出身の僧侶が中国で仏典翻訳に従事していたという。中でも有名なのが4世紀前半から5世紀前半に活躍した亀茲出身の鳩摩羅什(クマーラジーヴァ、Kumārajīva)である。 研究史20世紀の初めは中央アジアの探検が盛んであり、ドイツのグリュンヴェーデル(1906年)やル・コック(1913年、1914年)、日本の大谷探検隊(1909年、1913年)など、各国の研究者がキジル石窟に訪れて調査を行った。特にル・コックは石窟の壁画を大量に切り取ってベルリンに持ち帰り、民族学博物館に陳列した。これによってキジル石窟の貴重な壁画が破壊されたため、現在は無残な状態となっている。1953年以来、中国政府は石窟の調査と修理保存工作を進めている。中国はまず、現地に文物保管所を設置し、石窟の通し番号打ちを始め、東西2キロメートルの範囲に235基の石窟を確認した。1973年にはもう1基発見されたので、現在は236までの石窟番号がつけられている。 各石窟の名称現在は中国によって236の通し番号が西の方からつけられているが、ドイツ隊が発見した時はいくつかの石窟に西の第一区から独特の名称がつけられた。
石窟の創建時期キジル石窟は3世紀の中頃から8世紀の間に造られ、その石窟の構造や壁画の様式から大きく4つの時期に分けられる。
構造による分類236の石窟を構造によって分類すると、以下の5種類になる。
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脚注参考資料関連項目
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