伊藤ていじ伊藤 ていじ(いとう - 、本名:伊藤 鄭爾、1922年1月11日 - 2010年1月31日[1])は、日本の建築史家・建築評論家・作家。学位は、工学博士。日本の民家研究を行った人物。 工学院大学学長および理事長。ワシントン大学[要曖昧さ回避]客員教授、文化財保護審議会委員、文化財建造物保存技術協会理事長などを歴任。 略歴岐阜県安八郡北杭瀬村(現大垣市)生まれ[2]。旧制大垣中学校を卒業[3]し、第四高等学校に入学[4]。1942年に同校を卒業[5]し、東京帝国大学第二工学部建築学科に進学[6]。1945年に卒業後、東京大学第二工学部大学院で関野克に師事[7]。同大学副手・助手になるが肺結核が悪化し[2]、7年間の入院生活を強いられる。その後復帰し、東京大学生産技術研究所特別研究員、ワシントン大学客員教授の後、工学院大学に移る。 建築史家を志したのは、東京大学の助手のときに1954年(昭和29年)から東京大学工学部建築学科関野克教授と共に今井町での町屋調査に端を発する。この調査で倒壊寸前の今西家を棟札とともに国の重要文化財に推薦し、1957年(昭和32年)6月18日に指定されたことを機に民家建築が文化財として着目されるようになり、「町並み保存運動」が日本において始動することになる。1956年に「狂い咲きの桂離宮」を『新建築』に発表し、建築評論を開始する[2]。 一時期、磯崎新/川上秀光らと八田利也(はったりや)のペンネームを用い建築論を執筆。1961年に八田名義で『現代建築愚作論』を上梓[2]。 1961年、論文「日本民家史の研究(中世住居の研究)」で日本建築学会賞を受賞し、同研究で工学博士号を取得[7]。1975年から工学院大学学長。1983年、東京都設計候補者選定委員会審査委員長、新都庁舎コンペでは会長代理を務めた。 また、山形県中山町の柏倉九左衛門家住宅調査、山形県下蔵座敷調査などの調査研究の他、自然保全を目的とする山形寒河江川集水域生態計画などを手がける。 現代の茶室 - 日新設計コンペティションでは佳作。 1959年、写真家の二川幸夫と組み、日本の民家を紹介した『日本の民家』シリーズのうち『高山・白川』と『山陽路』で第13回毎日出版文化賞を受賞[2]。他に、『中世住宅史』『日本デザイン論』『数奇屋』『谷間の花が見えなかった時』『終わらない庭』、鎌倉時代の建築様式を先導した高僧の評伝『重源』など。 著書
脚注
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