人造石人造石(じんぞうせき)は、真砂土と石灰を混ぜた複合材料であり、人造石と割石を用いた土木工法である人造石工法(じんぞうせきこうほう)に使用される。 土木技師の服部長七によって考案され、明治後期頃に多数の港湾の防波堤や護岸、新田や農業用水の堤防護岸や樋門などに使用されたが、セメントの普及によって使用されなくなっていった。2020年(令和2年)時点では人造石工法を用いて約350件の工事が行われたことが判明している[1]。 歴史伝統工法とその欠点伝統工法である三和土(たたき)は真砂土と石灰を原料とし、井戸水や苦汁を入れて練ってから叩き固めたものである[1]。コンクリートの原料であるセメントは明治初期から使用されていたが、明治初期には輸入品が主体だったことから高額であり[1]、大規模な工事に用いるのは経済的に困難だった[2]。また、当時のセメントは水中でうまく固まらないという欠点もあり[3]、防波堤や護岸などの工事に用いるのは難しかった。 人造石工法の発明1876年(明治9年)、土木技師の服部長七は東京市日本橋の三浦家の地下通路工事の際、軟練りした三和土が水中でも凝固することを発見したことが人造石の始まりである[3]。服部長七は三和土に改良を加え、コンクリートに匹敵する強度を持つ複合材料として人造石を生み出した[1]。人造石は材料が安価で大量に入手可能であり、水中においてはセメントより強固な構築物を築くことができた[2][4]。 1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会では人造石工法で噴水池を仕上げたが、農商務省のお雇い外国人に「この人造石は何でつくってあるか」と問われたことをきっかけとして人造石と呼ぶようになった[1][5][4][6]。それまで服部長七はこの複合材料を長七たたきと呼んでいたが[1]、これ以降は工法の広まりに伴って日本各地で人造石という言葉が使われるようになった[7]。人造石工法により三河産真砂土の需要が高まったこともあり、三州たたきと呼ばれる場合もある[8]。また、服部人造石や結成石として言及された例もある[1]。 人造石工法の普及と衰退1882年(明治15年)、服部長七は地元の碧海郡高浜町(現・高浜市)にある服部新田の堤防工事を行ったが、この工事が人造石工法を用いた初の大規模工事だった[1]。1885年(明治18年)にはパリ万博発明博覧会に人造石を出品して銅牌を受けた[1]。1889年(明治22年)には服部長七の服部組による宇品築港が完成し、人造石工法も脚光を浴びた[1]。1904年(明治37年)には服部長七が隠居して服部組が解散し、施工中だった名古屋築港などは愛知県が引き継いだ[1]。 1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の際には、煉瓦積みの建築物が壊滅的な打撃を受けたのに対して、人造石工法を用いた構造物の損害は軽微だった[9]。セメントを用いて煉瓦を積んだ場合、重力の関係でセメント中の水分が上部に集まり、煉瓦の上面には十分に接着される一方、煉瓦の下面のセメントは非常に剥離しやすくなる[9]。それに対して、人造石は硬く練って構築時に叩き込むため全方向に接着力が得られ、全体としては強固な構造体を構築できるからであるとされる[9][4]。 その後はセメントを用いた工事が主流となり、人造石工法を用いた工事は廃れることとなった。太平洋戦争中には物資が枯渇したことで、日本本土の航空基地の滑走路の材料として人造石工法が採用された。 近年の動向「自然環境に優しく強度も得られる」という特性から、1999年(平成11年)にはカンボジアのアンコール遺跡にあるバイヨン寺院の修復に人造石工法が用いられた[10][4]。 近年ではアメリカ軍も軍事作戦中の航空基地の材料としてアースコンクリートという類似の素材の研究を行っている。人造石は最後は自然に土に帰る性質を持っているので、発展途上諸国では地震に強く環境汚染の無い自足的インフラ整備の建材として、その他コンクリートやアスファルトの代替物質として見直されつつある[4]。 1996年(平成8年)には四日市港潮吹き防波堤を中心とした旧港湾施設が重要文化財に指定された[11]。人造石工法を用いた構造物が重要文化財に指定されたのは初である。2020年(令和2年)7月19日、中部産業遺産研究会の主催によってシンポジウム「服部長七と人造石工法 産業近代化の基礎づくりを担った土木技術」が開催された[1]。 工法服部組は愛知県を中心とする西日本で人造石工法を用いた土木工事を行った[1]。人造石工法は風化した花崗岩からなる真砂土と石灰をおよそ7:3の比率で混ぜたものを用いる[12]。 形態や外観の特徴
人造石工法を用いた工事
脚注
参考文献
|
Portal di Ensiklopedia Dunia