京都市山科区の町名京都市山科区の町名(きょうとしやましなくのちょうめい)では、京都市山科区内に存在する公称町名を一覧化するとともに、その成立時期・成立過程等について概説する。 区の概要京都市中心部から東山を越えた東側、滋賀県との県境に位置する。東は滋賀県大津市、北は京都市左京区、西は同市東山区、南は同市伏見区に接する。令和6年(2024年)9月現在、面積28.70平方キロメートル、推計人口は130,855人[1]。 区域は、周囲を如意ヶ嶽、音羽山、醍醐山、東山などの山々に囲まれた盆地(山科盆地)である。区の北寄りを旧東海道が東西に走り、奈良方面への奈良街道も通じるなど、古くから交通の要衝であった。現在もJR東海道本線、東海道新幹線、国道1号、名神高速道路が区内を通っている。区内にはいわゆる観光スポットは少ないが、北部には天智天皇山科陵、毘沙門堂門跡、安祥寺、本圀寺(日蓮宗大本山)などがあり、区南端近くにはともに真言宗本山寺院である勧修寺、随心院がある。 明治22年(1889年)4月の町村制施行で、宇治郡安朱村、上野村、御陵村、日岡村、厨子奥村、竹鼻村、四宮村、髭茶屋町、八軒町、小山村、音羽村、大塚村、西野村、東野村、北花山村、大宅村、椥辻村、上花山村、川田村、勧修寺村、西野山村、栗栖野村、小野村の23町村が合併して宇治郡山科村が成立。大正15年(1926年)10月に町制を施行して宇治郡山科町となるが、5年後の昭和6年(1931年)4月に京都市東山区に編入された。昭和51年(1976年)10月に東山区から旧山科地域を分区して[2]、現在の山科区が成立した。 町名の概要町名の数京都市内の町名には「大原来迎院町」のように旧村名、旧大字名に由来する地名(上記例の場合は「大原」)を冠称するものと、「亀屋町」「菊屋町」のような単独町名とがあるが、山科区内の町名は例外なく、旧大字名(町村制施行前の旧村名)を冠した複合町名である。 区内の公称町名の数は、『角川日本地名大辞典 26 京都府』下巻によれば昭和55年(1980年)現在302町であった。以後、土地区画整理事業に伴う町界の変更はあるが、上述の302町は令和3年(2021年)現在も存続している。なお、昭和59年(1984年)に3町、平成6年(1994年)に1町が新設されているため、令和3年(2021年)現在の町数は306町である。 沿革明治22年(1889年)の町村制施行から、山科区成立までの沿革は既に述べた通りである。宇治郡山科町には安朱、上野、大塚、大宅(おおやけ)、音羽、小野、上花山(かみかざん)、川田、勧修寺、北花山(きたかざん)、栗栖野、小山、四ノ宮(しのみや)、厨子奥、竹鼻、椥辻(なぎつじ)、西野、西野山、八軒、東野、髭茶屋、日ノ岡、御陵(みささぎ)の23の大字が存在したが、これらは昭和6年(1931年)、山科町が当時の東山区に編入した際に計301町に編成された。これらの町名は「山科」の後に旧大字名を冠し、例えば「東山区山科安朱稲荷山町」のように称していたが、昭和51年(1976年)の山科区分区後は「山科」の冠称を廃している。
「安朱東谷」・「大塚大岩」のように、町名末尾に「町」をつけないものが一部に存在する。これらは山間部などで、昭和6年(1931年)の町名成立時において当該区域内に人家が存在しなかったものである。 公称町名一覧あ行
「安朱」を冠する町名は、もとの山科町大字安朱で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、17町に編成された。 「上野」を冠する町名は、もとの山科町大字上野で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、4町に編成された。これら4町はJR山科駅周辺の3か所に分かれて存在する。 「大塚」を冠する町名は、もとの山科町大字大塚で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、13町に編成された。 「大宅」を冠する町名は、もとの山科町大字大宅で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、25町に編成された。平成6年(1994年)8月27日、山科南部地区土地区画整理事業による町界変更と町名変更が実施され、大宅神納・大宅沢・大宅石郡・大宅細田・大宅関生・大宅早稲ノ内は町名の末尾に「町」を付すよう改称した[3]。 「音羽」を冠する町名は、もとの山科町大字音羽で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、19町に編成された。音羽平林町は地区の東方に離れて存在する飛地となっている。「音羽南谷」は牛尾山法嚴寺(牛尾観音)の所在地だが[4]、地図では「西野東山」と誤って表記されている。 「小野」を冠称する町名は、もとの山科町大字小野で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、10町に編成された。平成6年(1994年)8月27日、山科南部地区土地区画整理事業に伴い、小野蚊ケ瀬を小野蚊ケ瀬町と改称した[3]。 か行
「上花山」を冠する町名は、もとの山科町大字上花山で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、6町に編成された。 「川田」を冠する町名は、もとの山科町大字川田で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、15町に編成された。昭和44年(1969年)11月15日、清水焼団地協同組合施行土地区画整理事業の換地処分に伴い「川田清水焼団地町」(区画整理直後の名称は「山科川田清水焼団地町」)が新設され[5]、現在は16町である。このうち、「川田欠ノ上」は、まとまった町域でなく、地区内の数か所に飛地状に存在している。川田梅ケ谷町の一部は、昭和51年(1976年)の山科区成立の際、東山区側に残り、東山区今熊野梅ケ谷町となっている。 「勧修寺」を冠する町名は、もとの山科町大字勧修寺で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、28町に編成された。平成6年(1994年)8月27日、山科南部地区土地区画整理事業の換地処分に伴い「勧修寺東堂田町」が新設され[3]、現在は29町となっている。またこの時、勧修寺平田・勧修寺瀬戸河原・勧修寺泉玉・勧修寺東金ケ崎は町名の末尾に「町」を付すよう改称した[3]。当該地区にある寺院名は「かじゅうじ」を正式呼称とするが、地名は「かんしゅうじ」である。 「北花山」を冠する町名は、もとの山科町大字北花山で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、12町に編成された。 「栗栖野」を冠する町名は、もとの山科町大字栗栖野で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、4町に編成された。 「小山」を冠する町名は、もとの山科町大字小山で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、20町に編成された。 さ・た行
「四ノ宮」を冠する町名は、もとの山科町大字四ノ宮で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、19町に編成された。 「厨子奥」を冠する町名は、もとの山科町大字厨子奥で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、6町に編成された。これら6町は区内の3か所に分かれて存在し、厨子奥長通と厨子奥花鳥町は飛地となっている。 「竹鼻」を冠する町名は、もとの山科町大字竹鼻で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、13町に編成された。13町のうち3町は区の東方の山間部に位置する飛地である。 な行
「椥辻」を冠する町名は、もとの山科町大字椥辻で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、11町に編成された。「椥辻東山」は地図にみえないが、「西野東山」・「東野東山」と同様、区の南東端の山間部に位置する飛地である。 「西野」を冠する町名は、もとの山科町大字西野で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、17町に編成された。「西野東山」は区の南東端の山間部に位置する飛地である。 「西野山」を冠する町名は、もとの山科町大字西野山で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、10町に編成された。 は・ま行
「八軒」を冠する町名の区域は、もとの宇治郡八軒町で、明治22年(1889年)の町村制施行により山科村(のち山科町)大字八軒となった。大字八軒に属する小字は「屋敷」1つのみで、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、山科八軒屋敷町となった。 「東野」を冠する町名は、もとの山科町大字東野で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、11町に編成された。昭和59年(1984年)、東野井ノ上町の一部を分割して東野北井ノ上町・東野中井ノ上町・東野南井ノ上町となり[6]、現在は14町からなる。「東野東山」は区の南東端の山間部に位置する飛地である。 「髭茶屋」を冠する町名の区域は、もとの宇治郡髭茶屋町で、明治22年(1889年)の町村制施行により山科村(のち山科町)大字髭茶屋となった。大字髭茶屋に属する小字は2つのみで、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、2町に編成された。 「日ノ岡」を冠する町名は、もとの山科町大字日ノ岡で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、8町に編成された。なお、日ノ岡一切経谷町、日ノ岡ホッパラ町、日ノ岡石塚町は地区内の数か所に飛地状に存在する。 「御陵」(みささぎ)を冠する町名は、もとの山科町大字御陵で、昭和6年(1931年)に当時の東山区へ編入された際、30町に編成された。なお、西京区にある「御陵」は「ごりょう」と読む。御陵岡ノ西町と御陵池堤町は地区内の数か所に飛地状に存在する。 備考
脚注
参考文献
外部リンク
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