久松保夫
久松 保夫(ひさまつ やすお、本名:高橋寛[1][2][3][4]、1919年6月6日[1][4] - 1982年6月15日[1][4][2])は、日本の俳優、声優、青二塾(東京校)初代塾長。最終所属は青二プロダクション[7]。妻は舞踊家の花柳多美[2](元日劇ダンシングチーム、浜田多美子[9])。ダンサーの濱田昌子は妻の妹[8]。 経歴東京府東京市日本橋區久松町(現・東京都中央区日本橋久松町)出身[3][5](※芸名は出身地名に由来)。本籍は東京都中央区日本橋浜町二ノ四〇。 縫箔屋の四代目の江戸っ子として生まれ、中学時代の頃に両親に先立たれている[1][4]。 東京府立第六中学校(現・東京都立新宿高等学校)弁論部を経て、青山学院(現・青山学院大学)神学部へ入学[4][1]。日曜日には教会に出かけ、日曜学校に集まっていた幼い子供達に童話などを読み聞かせをしていた[4]。同じ境遇の幼い子供ら世の荒波から守ろうと、牧師を志す[1][4]。その頃、大日本帝国陸軍の大陸侵攻策は、満州事変から日中戦争へと、戦争拡大への道を歩みはじめており、平和を破壊する軍部の圧力に対し、声を大にして「否!」と叫べぬ宗教界の力のなさに失望して、演劇の虜になり、1938年9月に中退[1][3][4]。 同年新築地劇団入団[3][2]。ただし俳優ではなく経営部に籍を置き、劇団運営や客集めといった裏方として奔走する。舞台に上がるきっかけは、地方公演の同行でたまたま俳優が足りないゆえの頭合わせで、1939年『海援隊』で初舞台を踏む[3]。この時の発声や役者向きの顔が評価されて帰京後、役者としての籍を同劇団内に得る。1940年8月、新築地劇団解散後は、劇団築地小劇場、日本移動演劇聯盟くろがね隊と移り、この間に南旺映画で1940年3月、千葉泰樹監督の『彦六なぐらる』にて映画初出演を果たす[3]。 1942年8月、東京宝塚劇場(現・東宝)に技芸社員として入社[1]。東宝劇団に籍を置き[3]、菊田一夫の下で俳優としての才能を開花させる。特にセリフの早覚えと人並み以上の反射神経を生かしたアドリブ演技に秀でており、菊田自身久松の才能を高く評価しかわいがった他、作品の配役を久松自身に選ばせるなど恵まれた時を送った。後年、久松は「菊田先生の御恩は忘れられません」と語っている。 1949年3月、東宝劇団を退団しフリーとなる[1][10]。1950年、トーキョーラジオグループ創立に参加[11]。その後は現代ぷろだくしょん[12]、プレーヤーズセンターに所属[12]。 映画評論家で外国推理小説の権威でもあった双葉十三郎からの仕事で映画雑誌『スター』のグラビアを受け、これがきっかけで懇意になり、この結果1955年から始まったKRテレビ(現・TBSテレビ)の連続テレビドラマ『日真名氏飛び出す』で主人公・日真名氏役を得ることになる。双葉は東宝劇団時代の役作りに対する真摯な姿勢を菊田同様高く評価しており、双葉が原案者として参加していた『日真名氏飛び出す』の主役選定に当たって久松を主役に推薦、了承され演じることとなった。 『日真名氏飛び出す』は当時の視聴率調査で49.5%(関東地区)と高い反響を呼ぶ。 久松は無名に近い存在であったが一躍人気者となり[13]、ドラマでのテレビスター第一号の称号を得る。この当時のエピソードとして「チンピラ達が集まってケンカをしている処をたまたま覗きに行ったら『日真名氏が来た』と彼らは逃げていってしまった。彼らは『日真名氏は強い』と思っていたらしく恐れられていたようだった」と久松自身がインタビューで語っている。しかし反面、久松=日真名氏のイメージが強くなってしまい、以降はドラマのレギュラー、特に主役に恵まれず不遇な時を送っている。 1958年頃から声優としての活動も始め、『ララミー牧場』の主人公ジェス・ハーパー(ロバート・フラー)、『スタートレック/宇宙大作戦』のスポック副船長(レナード・ニモイ)、バート・ランカスターらの吹き替え等を担当した。中でも『ララミー牧場』のジェス・ハーパー役は渋い声と江戸言葉(いわゆる「べらんめえ口調」)で、最高視聴率43.7%(1961年2月23日)を記録する。なお『日真名氏飛び出す』で久松は本編内の生コマーシャル部分(インテグレートCM)でロバート・フラーとの共演を果たしている。アニメでも、その野太い声で逞しい男役を演じ、ファンを魅了していた[4]。 1959年、太平洋テレビジョンに招かれ、取締役兼芸能部長となる[14]。1962年の時点ではフリーランスで活動し[10]、1963年の時点では渡辺アーチストとグループりんどうに所属[15]。 こけしをはじめとする伝統玩具の蒐集家としても有名で、1974年に設立されたこけしの同好会「こけしの会」の同人を亡くなるまで務め、同人誌「木の花」や、こけし関連書籍の執筆などでも活躍した。1964年の時点では約5000体のこけしを収集しており、こけしの魅力について、1964年9月にこけし職人を訪ねるために夫人同伴で福島県を旅行した際には「伝統あるこけしには口に出せない美しさを感じ、民族的な面白さがある」と語っている[16]。 1969年4月、日本で初の声優専門の芸能事務所青二プロダクションの設立に参加、以来死去する1982年まで13年間所属した。あわせて、後進の育成、芸能人の生活向上と権利保護の活動にも力を注ぎ、青二塾の立ち上げに尽力し初代塾長を務めたほか、日本放送芸能家協会の設立に尽力し、社団法人日本芸能実演家団体協議会専務理事、文化庁著作権審議会委員、協同組合日本俳優連合副理事長等を歴任した。 1980年12月に呼吸困難で入院、その後、喘息、肺気腫、胃潰瘍を発症し入退院を繰り返すようになる。1982年6月15日、芸団協の会議に出席中に呼吸不全と心臓発作を併発し、死去[1][3]。享年63。生前出演が決まっていた『わが青春のアルカディア』は、急遽森山周一郎が代役として起用された[17]。墓所は雑司ヶ谷霊園。 人物自身の持ち役であるバート・ランカスターは一作ごとに全く異なった演技をするので役者としてやりがいがあると生前語っていた。アテレコの仕事の話をきくと早めに試写をしてからアテレコ二日前から体調を整え長編スクリーンは台本を五冊ほど用意し肩をこらせないようにするという。ランカスターのくせは声を出す前に必ず白い歯を見せることらしい。 趣味・特技は民族学、近世古文書解読、木偶研究等[18]。猛烈な読書欲、蔵書と収集品に埋もれていた[18]。 出演作品(俳優)映画テレビドラマ
出演作品(声優)吹き替え※太字は、メインキャラクター。 担当俳優
映画
ドラマ
テレビアニメ
劇場アニメ
ラジオ
その他コンテンツ
文献
後任・代役久松の死後、持ち役を引き継いだり、代役を務めた人物は以下の通り。
脚注
外部リンク
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